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草原演義  作者: 秋田大介
巻八
467/783

第一一七回 ③

ムカリ陣頭に奮迅して(やす)く三将を(もてあそ)

インジャ死地に勇戦して(つい)に一軍を(こぼ)

 そこへまた一将が現れた。誰あろう、癲叫子ドクト。怒号を挙げると、どっと(ヂダ)を繰り出す。


「小癪な!」


 ムカリは腕を返してこれを打ち払うと、三人を同時に相手取って、一歩も退()かず斬り結ぶ。これにはドクトも(ヘル)を巻いて、


「喪神鬼イシャンの(クウ)というだけのことはある。この猛獣(アラアタヌイ)に勝てるとしたらウリャンハタの大カンだけだろう」


 それを思えば、ますますその離脱(アンギダ)が惜しまれる。躍起になってムカリと争っているうちに、停滞していると見えた戦況は確実に動きつつあった。ヤクマンの両翼が突出して、ジョルチ軍をその翼のうちに取り込みつつあったのである。


 さらに四頭豹の中軍(イェケ・ゴル)も前進して、今や三方ことごとく敵兵で埋め尽くされる。


「さあ、愚かなフドウの小僧(ニルカ)と憎むべき叛徒(ブルガ)を討つは今ぞ!」


 四頭豹の(わら)いを含んだ(ダウン)が響く。ジョルチ軍二万は、寸断され、孤立し、その命運(ヂヤー)たるや風前の灯のごとし。


 当のジョルチン・ハーン自身が、紅袍軍(フラアン・デゲレン)とともに進退窮まっていた。(みずか)(ヌル)を真っ赤な返り血で染めたインジャは、


「このままではまずい! やむをえぬ、撤退(オロア)の合図を!」


 セイネンやノイエンといった随従する好漢(エレ)たちも(オロウル)を噛んで頷く。


 銅鑼の音が轟きわたる。力戦していた将兵はこれを聞いて、はっと我に返る。百人長(ヂャウン)たちは口々に「撤退、撤退!」と叫んで回る。しかしすっかり囲まれてしまっていたために思うようにならない。狼狽する間にも確実に死者が増えていく。


 ヤクマン軍は意図を察して、ますます勢いに乗って攻めかかる。もはやそれは到底(ソオル)とは呼べなかった。一方的な(ムクリ・)(ムスクリ)である。ジョルチの兵衆は互いに励まし合い、(かば)い合いながら、敵刃を掻いくぐって何とか逃れようとあがく。


 インジャとて容易(アマルハン)に退けるものではなかった。むしろ長旛竿(オルトゥ・トグ)タンヤンの掲げる大将旗が次々に敵兵を招き、重囲の(ヘレム)はひしひしと彼らを圧する。百人長の一人が(たま)らず、


「タンヤン様、御旗(トグ)をお棄てになっては……」


 言いかけたが、タンヤンは恐ろしい形相でこれを睨むと、


「愚かな! この旗を棄てるなど、よくもそのような……」


 あとは忿怒(アウルラアス)のあまり言葉(ウゲ)にもならない。インジャはううむと唸ると、周囲を顧みて、


「血路を開くぞ、我に続け!」


 言うや否や、制止の暇もあらばこそ、馬腹を蹴って刀槍の中に躍り込んでいく。あわてて、そして半ば自棄になって紅袍軍もともに打ちかかる。その気勢に押されたか、ヤクマン軍は後退しかけたが、すぐに己の優勢を思い出したらしく、何としても首魁を逃がすまいとて踏み止まった。


 気を抜く暇もなく寄せられる刀槍を払いつつ、好漢たちはただ天王(フルムスタ)の加護を念じて前へ進む。インジャや黄金の僚友(アルタン・ネケル)たちの乗馬が倒れたのも、一度や二度ではなかった。そのたびに隷民(ハラン)(アミン)を棄てて譲る(アクタ)に乗り替えて生き長らえた。


 彼らの表情は次第に苦渋に(ゆが)む。己の無能を(あざけ)り、(わら)い、ただ本能に衝き動かされるままに得物を振るった。




 インジャたちが何とか重囲を脱したのは、まさに奇跡と云うべきであった。気がつくと、斬っても斬っても消えぬと思われていた敵兵の壁が途切れていた。


 勢いよく馬腹を蹴って一挙に(ドゥグイー)の外へ飛び出す。なおも(すが)る敵兵を払い()けると、あとを顧みる余裕もなく疾駆(ダブヒア)する。悔恨の(ドウラ)ばかりがあとからあとから突き上げてきて、それを振り払うように(タショウル)を振るう。


 大将旗が見えたため、待機していたイエテン、タアバは急いで麾下の二千騎をもって駆けつけた。必死に追撃する(ブルガ)を押し返してインジャを逃がすと、己もそれに続いてそのまま後衛を務めた。


 僚友(ネケル)の安否を気遣うこともできずに、ただひたすらインジャを護って背走を重ねる。途中、幾度も留まろうとするインジャを(なだ)め、説得しながらおよそ六十里ばかりも退いて、(ようや)く態勢を立て直す。


 とはいえインジャとともに逃れたのは僅かに二千騎。輜重も放置してきた。インジャはイエテンを招いて、


霖霪駿驥(りんいんしゅんき)、君の言うとおりであった……」


 何も答えることができずに黙って(うつむ)く。インジャもテンゲリを仰いで何も言わなかった。


 その後、続々と敗残の将兵が集まってきた。その数は大きく減少しており、かつ傷を負っていないものはなかった。(しら)べてみると、戦える兵は一万騎(トゥメン)にも満たない。特にガダラン氏の損害は激しく、将兵の四分の三が戦場に(たお)れていた。


 ひとつだけ幸運だったのは、黄金の僚友(アルタン・ネケル)に欠けたものがなかったことである。あれだけの大敗にもかかわらず、金写駱(アルタン・テメエン)カナッサのような文官まで含めて全員無事だったのは、テンゲリの恩寵以外の何ものでもなかった。


 だがしばらくは(アマン)を開こうとするものもなく、疲れた身体(ビイ)を横たえ、(うつ)ろな(ニドゥ)でこの惨状を眺めるばかり。やっとセイネンが言うには、


「東西の軍勢に急いで合流(ベルチル)するよう早馬(グユクチ)を……」


 インジャは気を奮い立たせると、任に堪えうるものを募ってこれを命じた。

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