第一一七回 ③
ムカリ陣頭に奮迅して易く三将を弄び
インジャ死地に勇戦して竟に一軍を毀つ
そこへまた一将が現れた。誰あろう、癲叫子ドクト。怒号を挙げると、どっと槍を繰り出す。
「小癪な!」
ムカリは腕を返してこれを打ち払うと、三人を同時に相手取って、一歩も退かず斬り結ぶ。これにはドクトも舌を巻いて、
「喪神鬼イシャンの子というだけのことはある。この猛獣に勝てるとしたらウリャンハタの大カンだけだろう」
それを思えば、ますますその離脱が惜しまれる。躍起になってムカリと争っているうちに、停滞していると見えた戦況は確実に動きつつあった。ヤクマンの両翼が突出して、ジョルチ軍をその翼のうちに取り込みつつあったのである。
さらに四頭豹の中軍も前進して、今や三方ことごとく敵兵で埋め尽くされる。
「さあ、愚かなフドウの小僧と憎むべき叛徒を討つは今ぞ!」
四頭豹の嗤いを含んだ声が響く。ジョルチ軍二万は、寸断され、孤立し、その命運たるや風前の灯のごとし。
当のジョルチン・ハーン自身が、紅袍軍とともに進退窮まっていた。親ら顔を真っ赤な返り血で染めたインジャは、
「このままではまずい! やむをえぬ、撤退の合図を!」
セイネンやノイエンといった随従する好漢たちも唇を噛んで頷く。
銅鑼の音が轟きわたる。力戦していた将兵はこれを聞いて、はっと我に返る。百人長たちは口々に「撤退、撤退!」と叫んで回る。しかしすっかり囲まれてしまっていたために思うようにならない。狼狽する間にも確実に死者が増えていく。
ヤクマン軍は意図を察して、ますます勢いに乗って攻めかかる。もはやそれは到底戦とは呼べなかった。一方的な虐殺である。ジョルチの兵衆は互いに励まし合い、庇い合いながら、敵刃を掻いくぐって何とか逃れようとあがく。
インジャとて容易に退けるものではなかった。むしろ長旛竿タンヤンの掲げる大将旗が次々に敵兵を招き、重囲の壁はひしひしと彼らを圧する。百人長の一人が堪らず、
「タンヤン様、御旗をお棄てになっては……」
言いかけたが、タンヤンは恐ろしい形相でこれを睨むと、
「愚かな! この旗を棄てるなど、よくもそのような……」
あとは忿怒のあまり言葉にもならない。インジャはううむと唸ると、周囲を顧みて、
「血路を開くぞ、我に続け!」
言うや否や、制止の暇もあらばこそ、馬腹を蹴って刀槍の中に躍り込んでいく。あわてて、そして半ば自棄になって紅袍軍もともに打ちかかる。その気勢に押されたか、ヤクマン軍は後退しかけたが、すぐに己の優勢を思い出したらしく、何としても首魁を逃がすまいとて踏み止まった。
気を抜く暇もなく寄せられる刀槍を払いつつ、好漢たちはただ天王の加護を念じて前へ進む。インジャや黄金の僚友たちの乗馬が倒れたのも、一度や二度ではなかった。そのたびに隷民が命を棄てて譲る馬に乗り替えて生き長らえた。
彼らの表情は次第に苦渋に歪む。己の無能を嘲り、嗤い、ただ本能に衝き動かされるままに得物を振るった。
インジャたちが何とか重囲を脱したのは、まさに奇跡と云うべきであった。気がつくと、斬っても斬っても消えぬと思われていた敵兵の壁が途切れていた。
勢いよく馬腹を蹴って一挙に輪の外へ飛び出す。なおも縋る敵兵を払い除けると、あとを顧みる余裕もなく疾駆する。悔恨の情ばかりがあとからあとから突き上げてきて、それを振り払うように鞭を振るう。
大将旗が見えたため、待機していたイエテン、タアバは急いで麾下の二千騎をもって駆けつけた。必死に追撃する敵を押し返してインジャを逃がすと、己もそれに続いてそのまま後衛を務めた。
僚友の安否を気遣うこともできずに、ただひたすらインジャを護って背走を重ねる。途中、幾度も留まろうとするインジャを宥め、説得しながらおよそ六十里ばかりも退いて、漸く態勢を立て直す。
とはいえインジャとともに逃れたのは僅かに二千騎。輜重も放置してきた。インジャはイエテンを招いて、
「霖霪駿驥、君の言うとおりであった……」
何も答えることができずに黙って俯く。インジャもテンゲリを仰いで何も言わなかった。
その後、続々と敗残の将兵が集まってきた。その数は大きく減少しており、かつ傷を負っていないものはなかった。検べてみると、戦える兵は一万騎にも満たない。特にガダラン氏の損害は激しく、将兵の四分の三が戦場に斃れていた。
ひとつだけ幸運だったのは、黄金の僚友に欠けたものがなかったことである。あれだけの大敗にもかかわらず、金写駱カナッサのような文官まで含めて全員無事だったのは、テンゲリの恩寵以外の何ものでもなかった。
だがしばらくは口を開こうとするものもなく、疲れた身体を横たえ、虚ろな目でこの惨状を眺めるばかり。やっとセイネンが言うには、
「東西の軍勢に急いで合流するよう早馬を……」
インジャは気を奮い立たせると、任に堪えうるものを募ってこれを命じた。