第一一七回 ②
ムカリ陣頭に奮迅して易く三将を弄び
インジャ死地に勇戦して竟に一軍を毀つ
無言で頷くサノウの得物は、特異な形状をしている。すなわち縄鏢なるもので、革張りの短い柄がついた長縄の先端に槍のごとき刃先が付いている。
刃先を投げつけて敵を突き、また縄の部分でその得物を搦めとるという常人には扱いがたい珍しい得物。これまで自ら戦闘することなどなかった帳幕の謀臣も、ここに至ってはそうも言っていられない。
輜重を預かるズラベレン軍を除く全軍が投じられて、強大な敵に当たる。コヤンサンはどうにも堪えがたくなって、
「イエテン、ここを嘱む!」
「どうする気だ」
「知れたことよ! 俺もひと暴れしてくる。千騎ばかり連れていくぞ」
旱乾蜥蜴タアバが口を尖らせて、
「我らには後軍の責務が……」
「喧しい! この危急の際に前も後もあるか!」
言うなり命を下して、怒声とともに飛び出していく。かくしてジョルチ軍は、ほぼ全軍揃ってまっしぐらに突っ込む。
四頭豹は戦況を一瞥して、ふんと鼻で笑うと、
「誰がフドウの小僧を戦巧者などと言ったのだ。奴は網に罹ったぞ」
冷静に呟くとさっと合図を出す。金鼓が鳴り響き、両翼がどっと動きだす。
キレカはムカリの猛攻を支えて奮戦していたが、すでに陣形も失われて、人馬入り乱れる大混戦に巻き込まれていた。彼方より軍鼓轟き、援軍が到着したことを知ると、
「ハーンが助けに来てくれたぞ! みなのもの、今少しの辛抱だ!」
そう叫んで兵衆を鼓舞しながら右へ左へ駆け回る。群がる敵兵を突き伏せ、斬り倒し、ときには飛刀を放って命を奪う。諦めかけていた兵衆も再度勇を奮い起こす。
が、それでも亜喪神ムカリの卓越した武技は余人の及ぶところではなく、立ちはだかるものはことごとく斃れていく。その戦斧の翻るところ、鮮血の迸り、首や腕が次々に宙に舞う。
ムカリは久々の戦場にすっかり昂揚し、塵芥のごとく敵騎をあしらいながら、ついには身を竦ませるような哄笑とともに進んでいく。その行くところ絶叫が谺し、瞬く間に屍の山が築かれる。
一度は奮起したガダラン軍もこの鬼神のごとき猛将の前にたちまち意気阻喪し、その馬首が赴けば、わっと悲鳴を挙げて道を空ける有様。
次第に押されて、今にも崩れんとしたところにオラル率いるイレキ軍が突入する。瞬時に乱戦に巻き込まれて、全体の戦局など頭から消し飛んでしまう。碧水将オラルは叉を縦横無尽に振るいつつ、盟友の姿を捜す。
「あっ、危ない!」
見ればキレカは前方の敵に気を取られて、背後の敵にまったく気づいていない。オラルは眼前の敵騎をひと突きにて屠ると、疾駆しながら腰の嚢より礫を取り出だす。
やぁっと一閃すれば、狙い違わずキレカを襲わんとしていた騎兵を打ち落とす。キレカは初めて危機の迫っていたことを知ると、
「おお、碧水将! ありがとう」
ぱっと顔を輝かすと、大声で言うには、
「さあ、イレキ軍が来たぞ! 返せ、返せ!」
二人の驍将は馬を並べて、全身に返り血を浴びながら奮戦する。周囲に次第に味方の兵衆が集まりはじめる。
ムカリはそれを見て、かっと目を見開くと、馬首を転じて向かっていく。獣のごとき咆哮を放ちつつ、
「この叛徒め!」
キレカはこれに気づくと傍らのオラルに、
「亜喪神さえ討ちとれば何とかなろう!」
かくして二騎はこれを迎え撃つ。まずはキレカが得物を左手に持ち替えて、さっと飛刀を飛ばす。
「うぉっ!!」
虚を衝かれたムカリだが、これを戦斧で叩き落とす。足は一向に止まらず接近してくる。馬上に体勢を整えたところを、今度はオラルの礫が襲う。がん、と鈍い音がしてムカリは仰け反る。
「やったか!?」
そう思ったのも一瞬、すぐに身を起こして、ますます猛り狂って二騎に迫る。
「つまらん技を! 正々堂々と戦え!」
びりびりと空気を震わせるような怒号を叩きつけると、ついに戦斧を繰り出してくる。咄嗟に叉の柄でそれを受け止めたオラルは苦痛に顔を歪める。
「何て強力な!」
肩の辺りまで鈍痛が走り、手は痺れて、思わず得物を落としかける。すかさずキレカが突きかかってこれを助ける。ムカリは苛々しながらこれを弾くと、
「ええい、うるさい蠅め!」
左へ右へ戦斧をうち振るうムカリに対して、二将は為す術もなく翻弄される。もとより紅火、碧水両将もその名を知られた雄将であったが、亜喪神の豪勇はまさに常軌を逸していた。
しかしさすがと云うべきか、並の武将なら瞬時に斬られているところを十合、二十合と打ち合ってなお勝敗が決しない。次第にムカリの表情は瞋恚で赤黒く染まっていく。