第一一七回 ①
ムカリ陣頭に奮迅して易く三将を弄び
インジャ死地に勇戦して竟に一軍を毀つ
クル・ジョルチ軍南下の報を受けて、ウリャンハタ軍二万騎は南征軍から離脱して西原へ去った。ジョルチ軍はやむをえず南進を延期して三軍を再編成したが、その間にヤクマン部の丞相四頭豹ドルベンは、五万を超える大軍を興して出陣した。
のちにこの戦の経過を知った神箭将ヒィは嘆息して、
「ウリャンハタ離脱の時点で、戦略そのものを転換するべきだったのだ。そもそも兵法にも『故に兵は拙速を聞くもいまだ巧久を睹ざるなり』と謂うではないか。たしかに三軍を整えて大蛇のごとく運用するは理想だが、形に固執したばかりに四頭豹に機を与えたのだ」
また付け加えて、
「蓋し獬豸軍師サノウは世に類稀なる軍師だが、機に臨んで変に応ずる才略には欠けたるところあらんか」
それはさておき本題に返って、危機迫ることを予感すらしていない義君インジャらは、昼は進み、夜は休んで次第に南進した。
先に霖霪駿驥イエテンが憂慮に沈んでいたことは述べた。一度は呑天虎コヤンサンに咎められて口を噤んだが、行軍中そのことがずっと気に懸かっていた。ある夜、堪りかねて中軍のインジャを訪ねると、密かに内心を打ち明ける。
するとインジャは、
「イエテンの懸念、もっともである。明日よりは斥候の数を倍にして備えよう。よく気づいてくれた」
まだ完全に不安が払拭されたわけではなかったが、とりあえずほっとすると、コヤンサン辺りに気づかれぬよう、そっと自陣に戻る。
その翌日である。前を行く紅火将軍キレカから急の伝令が送られてきた。その顔は青ざめ、額には大粒の汗が浮かんでいる。よほどあわてて駆けてきたらしく、鞍から滑り落ちるように下りると、勢い込んで拝謁を求める。
許されてインジャの前に平伏すると、半ば悲鳴混じりに叫んで、
「ぜ、前方に敵軍! ……そ、その数はおよそ数万かと! 地を埋め尽くす大軍でございます!」
居並ぶ好漢は思わず声を挙げる。さらに第二報が入る。
「ガダラン軍、ヴァルタラ平原にて交戦に突入! 敵の先鋒は、赤い旗を掲げたる猛将にて……」
「亜喪神だ!」
誰からともなく忌まわしき名が叫ばれる。その後も間断なく入る報告は一刻の猶予も許さぬことを示す。インジャは即断して、
「全軍急行! 紅火将を援けよ!」
それを受けてサノウから細かな指示が飛び、伝令が四方八方に放たれる。ジョルチ軍は俄然速度を上げてヴァルタラ平原へ向かった。
戦場に到着した諸将は瞠目した。まさに早馬の告げたとおりである。ガダラン軍は堅陣を組んで、怒涛のごとき猛攻に堪えている。赤軍の濃い赤旗と、紅火将の黄味がかった赤旗が入り乱れる。その後方には敵の大軍が左右に広く布陣している。
インジャは厳しい顔つきでそれを睨むと、
「軍師!」
サノウが応じて進み出ると、
「今は死戦あるのみ。総力を挙げて紅火将を救うほかありません」
その表情は険しく苦悶に歪んでいる。インジャは大きく頷くと、
「軍鼓を!」
高らかに鼓の音が響きわたる。碧水将軍オラルは叉を大きくうち振るうと、兵衆を叱咤して、
「イレキ軍、突撃! 紅火将を救うのだ!」
わあっと大喊声を挙げて、青い旗を掲げた七千騎が混戦に割って入る。それを見届けたインジャも腰の宝剣をすらりと抜いて、
「永えの天の力にて、突撃!」
常にない大声がすべての兵の頭上に降りかかると、天地をどよもす喊声がこれに応える。インジャは馬腹を蹴って真っ先に駆けだした。炎ある双眸をかっと見開き、ただ正面を見据えて馬を駆る。
その気迫に負けじと、前衛を担う癲叫子ドクト、雷霆子オノチの二人の勇将も怒号を撒き散らしつつ突進する。
インジャの周囲を固めるのは百策花セイネン率いる紅袍軍。名のとおり紅の戦袍を纏い、朱塗りの槍を脇に挟んで主君の身を護る。
またその左側にぴたりと寄り添うは巨躯の好漢、飛天熊ノイエン。並のものなら十人がかりでも持ち上げられぬ鉄の錫杖を、軽々と振り回しつつ随う。顧みて青い顔のサノウに言うには、
「我が背後より離れなさるな!」