第一一六回 ②
カントゥカ卒かに冦難に接して南原を辞し
ドルベン漸く三軍を興して義君に挑む
そのまま行き過ぎようとしたが、ふと足を止めて振り返ると、
「もちろん己の背後にも気を遣われるがよかろう」
ジョルチの諸将は、はっと息を呑む。カントゥカらが退出してしまうと、百策花セイネンが言うには、
「衛天王の言葉、たしかにそのとおりでございます。後背には神都に奸人ヒスワがあります。人を遣って不穏な動きがないか確かめる必要がありましょう」
「そうだな。神都は東方に神箭将ヒィ・チノがあれば、軽々しくは動けまいが……。よし、白面鼠は千騎をもってカオロン河沿いに北上せよ。何かあればすぐに山塞と我らに早馬を」
「承知」
マルケは拝命して即座に退出する。
ウリャンハタ軍一万五千騎が離脱するのはかなりの損失である。ヤクマンの降将を加えて増大した兵力が、一瞬にして減ってしまった。ためにまた兵略を練り直すことにして彼らは南進を延期した。
西方の胆斗公ナオルには急使を派遣して、カントゥカらの西帰を援護するよう命じる。
俄かに軍議が開かれ、両翼の再編成が討議される。サノウらの進言によって以下のとおり陣容を改めることにした。
まず中軍は、フドウ、紅袍軍、カミタなどから成る四千騎を軸に、ズラベレン三千、加えて西方からイレキ七千、新たに投稿したガダラン八千を呼び寄せて総計二万二千騎とする。
右翼たる西軍は、ジョンシ、ドノル、タロトなど七千、カントゥカの残したカオエン五千のほか、中央よりジョナン六千を送って計一万八千騎。
最後に左翼を成す東軍は、ベルダイ五千とセント八千がまもなく約会せんとしている。計一万三千騎である。
つまり超世傑ムジカが西へ向かい、代わって紅火将キレカ、碧水将オラルが中軍に加わることになったのである。ウリャンハタ軍が去ったとはいえ、総じて五万数千騎が三手に分かれてトオレベ・ウルチのオルドを目指す。
多少の不安を覚えていた好漢たちも、この陣容を見てほっと安心した。いかに四頭豹が奸智に長けていても、万にひとつも負けるとは思えなかったのである。
しかしまだ四頭豹の手許には八旗のうち四旗が残っている。そしてそれこそが意のままになる四旗であった。
すなわち自らが率いる白軍のほか、大将軍ダサンエンの緑軍、亜喪神ムカリの赤軍、コルスムスの禁軍である。その数は六万騎以上、インジャの南征軍を上回る兵力を誇っている。
さて緑軍のダサンエンだけは早くに出陣を命じられたものの、逡巡している間に戦機を逸してしまったことは先に述べたとおりである。
四頭豹はやはり兵を動かさず、インジャに大軍あるを知りながらこれを一軍のみで前進させた。ダサンエンは戦意に乏しかったが、やむなく一万騎をもって北上した。途中幕僚に言うには、
「西北に道を採れ!」
驚いた幕僚の一人が、
「しかし敵は北のクフ平原に拠っているのでは……」
すると冷汗を拭いつつ、
「うるさい、兵法にも謂うではないか。『その意わざるところに趨け。千里を行きて労せざるは無人の地を行けばなり。攻めて必ず取るはその守らざるところを攻むればなり』とな」
それは曲解以外の何ものでもなかったが、幕僚たちは口を噤んだ。
果たして彼は戦闘を回避することはできなかった。というのも、偶々西へ急ぐウリャンハタ軍に遭遇してしまったからである。サノウの忠告により十分に警戒していたので、緑軍を見ると、
「やはり来たか!」
とて即座に対応した。ダサンエンにとってはいるはずのない敵である。周章狼狽すると、まともにぶつかろうともせず真っ先に馬首を廻らす。
ために麒麟児の鋭鋒が及んだときにはすっかり浮足立ち、軍の体裁も整わぬまま散々に撃ち退けられた。シン・セクは暴れ足りずに不平を吐き散らしたが、急いでいる身であればやむなく追撃を中止した。
ダサンエンはおよそ二十里も背走してやっと陣を立て直すと、いまだ恐怖から覚めぬ様子で、
「なぜかの地に敵軍が在るのだ。そのような報告は受けておらぬぞ」
そう言うと、己の失策は顧みずに哨戒兵の長を処罰した。その後は迂闊に動くことを恐れてその場に留まり、情勢を窺うことにした。
しかしどうやらテンゲリはよほど卑怯卑屈の徒を憎むと見えて、緑軍はまたしても思わぬ敵に出遭うことになる。
すなわち命を受けてクフ平原に向かう紅火、碧水両将である。降ったばかりのキレカが欣喜雀躍したのは言うまでもない。ハーンへの贈物にちょうどよいと小躍りして襲いかかる。
奇襲を受けたダサンエンは再びあわてふためいて、離脱せんとて馬の背にしがみつく。ところが今度は見逃されるはずもなく、武勲を求めるキレカはどこまでもこれを追う。
凡将の最期は悲惨であるのみならず滑稽ですらある。ダサンエンもこの例に漏れず、ついには部下に見放され、彼らの手によって縛り上げられた上で突き出された。キレカはおおいに喜ぶと、縋るような目で命乞いをする彼に言った。
「今までお前らのためにどれだけ心ある好漢が苦しんだことか。見苦しいぞ、ダサンエン! 己の罪の深さを噛みしめて死ね」
あわれ一時は大将軍として権勢を振るったダサンエンも、最後は剣を執って戦うことすらなく首を刎ねられたのである。