第一一六回 ①
カントゥカ卒かに冦難に接して南原を辞し
ドルベン漸く三軍を興して義君に挑む
自らジョルチの陣に来て帰投した神風将軍アステルノに対して、美髯公ハツチらを遣って霹靂狼トシ・チノとの合流を命じたジョルチン・ハーンは、いよいよクフ平原を去ってさらに南下せんとしていた。
そこに突然早馬が至る。男は息を切らしつつ、青ざめた顔で言うには、
「い、一大事にございます。西原にて変事が起こりました!」
「何だと!」
居並ぶ好漢は、さっと顔色を変える。独り衛天王カントゥカだけは表情ひとつ変えずにいる。男は言葉を継いで、
「イシのカトメイ様より急使が来て、クル・ジョルチ軍が南下してきたことを報せたので、夜を日に継いで駆けてまいった次第。大カンにおかれましては早急にご対策を!」
潤治卿ヒラトが声を荒らげて、
「敵軍の数は!」
「詳しいことは判りませぬが、およそ数万かと! 先鋒はおそらくタイクン氏族長セイヂュク!」
「あの老いぼれか! して一角虎はどうした!」
「紅火将軍キレカは、オラル様の説得に応じて降伏しました。そこでいざ兵を進めんとしたところにカトメイ様の急使が来たのです。スク様は中央の指令を今や遅しと待っておられます」
ヒラトは苛立ちを隠せずに言った。
「西原の状況、もう少し詳細に判らぬか。牙狼将軍は?」
「申し訳ございません。私は第一報を受けてとりあえず駆けてまいったゆえ、そこまでは……」
「わかった。下がって休め!」
男が恐縮して去ると、たちまち場は騒然となる。渾沌郎君ボッチギンが言った。
「先鋒の麒麟児はもう発ったか。まだならすぐにこれへ。出立していたら早急に返らしめよ!」
奇人チルゲイは目を白黒させつつ、興味深そうにことの推移を眺めている。さしもの聖医アサンも幾分青ざめた様子で、
「四頭豹の妙な余裕の謎が解けました。きっとクル・ジョルチの出兵は彼奴の唆しに因るものでしょう」
ヒラトは必死の面持ちで、
「すぐに西帰いたしましょう。牧地が失われては戦どころでは……」
この間、ジョルチの好漢たちは為す術もなく呆然と見ているばかりであった。決断を迫られたカントゥカは、ううむと唸ると諸将を制して言うには、
「南征の大事を中途にて放棄せるは極めて無念……。義君やその僚友にも申し訳が立たぬ」
「しかし、大カン!」
詰め寄るのをひと睨みすると、
「あわてるな。牧地の危機は捨て置けぬ。ただ義君の許しを請わねばならぬと申しておるのだ」
向き直って言うには、
「我が盟友、ジョルチン・ハーンよ。恥ずかしいことだが聞いてのとおりだ。四頭豹を討つまでは帰らじと誓って出征したのに、まことにもって申し訳ない。願わくば西原の窮状を察して、我らの離脱を許したまえ」
インジャは即座に頷くと、力強く言うには、
「無論、牧地と人衆の安寧こそ第一。早急に帰って卑劣な賊徒を討つべき。諸将も異存のあろうはずもない」
周囲を見わたせば、誰もが青い顔で同意する。カントゥカは厚く礼を述べると言うには、
「花貌豹を残していくゆえ、存分にお使いくだされ。では」
「お待ちください!」
踵を返そうとしたのを呼び止めたのは、誰あろう義君インジャ。憂いを湛えた表情で言うには、
「花貌豹ほどの名将をこちらに残されてよいのか。全軍をもって帰られよ」
「いや、もとより南征は両部族の大事。ならば我らだけ抜けるわけには参らぬ。なに、クル・ジョルチなどまともに戦えば敵ではない。心配無用」
「ならよいが……」
そこで獬豸軍師サノウが進み出て拱手すると、
「余計なことかもしれませぬがひと言。今や危難迫ったからには、一刻も早くと道を急がれるかと存じますが、クル・ジョルチ出兵も四頭豹の奸計の一環に違いありません。道中くれぐれも警戒を怠りませぬよう」
カントゥカは一瞥をくれると返礼して、
「軍師の助言、肝に銘じておこう」