第一一五回 ④
アステルノ義君を度りて超世傑酒に乱れ
ジュゾウ神風に賭して美髯公髪を薙る
しばらくは何の兆しもなく、草原は相変わらず延々と続き、風は彼方から吹きわたって頬を打つ。テンゲリは高く、青く、僅かな雲すらない。その中を三人の好漢は駆け抜けていく。
いつか陽は中天高く、初めて休憩を挟む。円陣を組んで斥候を放ち、食事を摂る。そろそろ発とうかというとき、一騎の斥候が大喜びで戻ってくる。駆け込むなり叫んで言うには、
「セント軍です! セント軍八千騎があの丘の向こうに!」
「何だと? 真か!」
ジュゾウは驚いて跳び上がる。オンヌクドは満足げに頷いて微笑む。あわれハツチは青ざめてテンゲリを仰ぐ。ことの顛末など知らぬ斥候は頬を上気させて、
「はい! すでに我らの所在を伝えれば、神風将軍は軍を留めて待機しておられます!」
それぞれの思いを抱えつつ、三人は千騎に命令を下す。ジュゾウが言った。
「完敗だ、完敗。よもや天兵を除いてこれほど速い軍があろうとは思わぬ」
そして満面の笑みを浮かべてハツチを見遣ると、
「まあいいさ。負け分はあとできっちり払うさ。なあ、無髯公」
かっと瞋恚を含んだ眼を向けたが、何も言えずに押し黙る。すぐに発って丘を越えると、斥候の言ったとおり八千の軍勢が布陣している。旗は紛れもなくセント氏のもの。アステルノに見えて挨拶を交わし、インジャの命令を伝えると、
「承知。すぐにも霹靂狼のもとへ向かおう。ただ貴公らは我が軍についてこられるかな?」
三人は顔を見合わせて、小声で話し合う。ついにハツチが言うには、
「麾下の千騎はここで返します。我らは何としても同道させていただく所存」
アステルノは呵々大笑して、
「ならばあれこれ言うまい。死ぬ気でついてくるがいい。中途で弱音を吐いても、待ってはやれぬぞ」
その言葉のとおり、進軍は過酷を極めた。休憩はほとんどなく、馬を次々と乗り替えながら何かに憑かれたように先へ進む。ジュゾウらはただ必死で馬の背にしがみついているばかり。
夜になってやっと停止が告げられたときには呼吸すらままならず、身体は軋んで立っていることもできない。滑り落ちるように鞍を下りるなり、草の上に寝転んで荒い息を吐く。ジュゾウはそれでも無理に笑いつつ言うには、
「俺はこんなつらい思いをしたのは初めてだ。……さあ、賭の精算をしよう」
ハツチは顔を歪めて、
「この上、さらにわしを苦しめようと言うのか!」
「わ、忘れぬうちにやっておかぬとな。逃げられてはかなわぬ」
「わしが逃げるだと! 侮辱もたいがいに……」
あとは咳き込んでしまって言葉にならない。兵に命じて馬乳酒を持ってこさせると、それを飲んでやっとひと息吐く。そこへアステルノが現れて、三人の困憊した姿をおおいに笑うと、
「明日も夜明け前には発つぞ。半日でこの有様では先が危ぶまれるな」
「ひえぇ! 明日もこれが続くのかい。さっさとことをすませて寝ちまおう」
「何をすますって?」
問いに答えて、オンヌクドが賭の仔細を話せば、
「ははは、ジョルチの好漢よ。俺を軽く見た当然の報いというわけだ」
「猛省してるさ。二度とこんな賭はするまいよ」
ジュゾウは起き上がると、懐より短刀を取り出して、
「さあ、美髯公。俺が自ら剃ってやるぜ。顔を出しな」
ハツチは今はこれまでと思い定めて、ぐっと顎を突き出すと、
「存分にやるがいい! よいか、頭まで丁寧に剃り上げるのだぞ!」
半ば自棄になって叫ぶ。オンヌクドはさすがに不憫に思って、
「ジュゾウ殿、先のほうだけで恕してやってくれないか」
そう言いだせば、何と当のハツチ自身が強く首を振って、
「いや、好漢に二言はない! ばっさりとやってくれ」
これにはジュゾウも辟易して、
「強情な。奔雷矩が執り成してくれたというのに。礼を言って従うがいい」
「ええい、うるさい! わしは半端が嫌いなのだ!」
この言いざまにむっとしたジュゾウは、短刀を構えると、
「よくわかった! ならばこっちも遠慮はせぬ。目を閉じろ!」
堅く目を閉じて胡座する背後に回ると、躊躇なく頭髪に刃を入れる。オンヌクドは瞠目して、アステルノは笑みを浮かべてこれを見守る。
はらはらと黒い髪が膝に落ちかかり、みるみるうちに頭皮が露になる。眉間の皺はいよいよ深く、苦悶の表情となる。
ついに後頭部まで青々と剃られ、残るはふさふさと伸ばした髭ばかりとなったところで、刃を袖で拭って言うには、
「よし、できた!」
みな虚を衝かれて唖然とする。ジュゾウは得々として、
「半端が嫌いだと言っていたから、半端にしておいた。どうだ『美髯公』にして『禿頭公』となった感想は」
ハツチは恐る恐る頭に手をやる。びくりと肩を震わせて、
「おお、おお、また何ときっちり剃り上げたものだ……」
アステルノは手を叩いて喜ぶと、
「ははは、よく似合うではないか。いかつさが増したぞ!」
「いかつくなどなりたくないわ! ああ、わしの華麗な容姿がこんな酷い有様に成り果てるとは……」
「華麗? もともと酷いではないか」
「言ったな、飛生鼠!」
激昂したが、昼の行軍に疲れて身体が思うように動かない。苛立ちながらも諦めて、用意されたゲルに這うように入っていったが、この話はここまでにする。
さてかたやジョルチン・ハーンは予定どおり陣を払って、ウリャンハタ軍とともに行軍を再開せんとしていた。ところがいよいよ前軍が発つという間際になって、一騎の早馬が駆け込む。
そのもたらした一報から陣中は上を下への大騒ぎとなり、ついには盟友の道を分かって進退の再考を迫られることとなる。
まさしく家郷の難を聞くに及んでは、征野に力を尽くしがたしといったところ。果たして早馬はいかなる凶報を告げたか。それは次回で。