第一一五回 ②
アステルノ義君を度りて超世傑酒に乱れ
ジュゾウ神風に賭して美髯公髪を薙る
はっと我に返ったムジカは、立ち上がってその手から酒瓶を奪い取ると、これを睨みつけて、
「お前は何と礼を知らぬ奴だ! ハーンを何だと思っている!」
言うや否や、いきなり直に口を付けて一気に飲み干す。余の二人はおおと嘆声を挙げてこれを見守る。飲み終わると手の甲で口を拭って、回らぬ舌で言うには、
「ハーンには、とんだ失礼を。この、こんな礼を失した、思うに何と詫びればよいか。ああ、何と言ったらよいか……」
ぐらぐらと前合後仰して目の焦点も定まらない。インジャとアステルノは顔を見合わせて、弾けたように笑いだす。
「何がおかしいのですか? 何もおかしくありません」
憤然として言うのを聞いて、さらに大笑い。ひとまずこれを座らせれば、ううむと唸って目を閉じてしまう。
次の瞬間、アステルノは俄かに座を下りて平伏した。言うには、
「ハーン! たび重なる非礼、お恕しください!」
インジャはあわてて、
「何を言うのです。私はこんなに楽しい酒を飲んだのは久々です」
しかし地に額を着けたまま大声で言うには、
「いえ、俺は不遜にもハーンの人を試すようなことをしてしまいました。この罪は万死に価します」
やや困惑した様子で、
「何をおっしゃっているのか解りません」
「俺は己を愧じています」
ムジカがうっすらと目を開いて、
「そうだ、愧じろ」
「喧しい、酔漢め! 黙っていろ」
するとぶつぶつと何ごとか呟きながら、また目を閉じる。アステルノは改めて叩頭して言うには、
「もし赦されるならば、どうか俺も幕下に加えてください。ともに四頭豹を討ち、大義のために戦うことをお許しください!」
インジャは親しく手を取って起き上がらせると、
「将軍の言葉を聞いて、まるで百万の味方を得た思いです。むしろ私からお願いしたい。ともに奸賊を討つために戦いましょう」
アステルノは声も出ないほどに感動して幾度も謝す。かくしてヤクマン部の名将がまた一人、義君に投じたのである。
アステルノは酔い潰れたムジカを抱えて辞去し、これをタゴサに託すと、急いで軽騎のもとに帰って事の次第を告げた。これを聞いて驚かぬものはない。口々に問いを発するのを黙らせると、
「ジョルチン・ハーンは噂以上の人物であった。人衆を寧んじ、草原に法を行うのは必ずや義君であろう。下々のものと楽しみを分かち、さらには苦しみをともにできる稀な主君だ」
アステルノは一隊を分かって留守陣へ走らせた。イレキの民とともに北へ難を避けさせるためである。
自身はすぐに残りの兵を率いて帰路に就く。夜営を思うものもあったが、一度決断したら即行動しなければ気がすまない主の気性はみな承知していたので、異論は出なかった。
翌日、頭痛とともに目覚めたムジカは、タゴサの差し出す水を飲みつつ、
「なあ、昨夜、アステルノが来たように思ったのだけど」
タゴサは眉間に皺を寄せて、
「まだ酔ってるの? そのアステルノがあなたをここまで運んでくれたのよ。大ゲルで何か失礼があったんじゃないかって、私は気が気じゃないよ」
ムジカはあっと小さく叫んで寝台から跳ね起きると、あわてて身支度を整えてゲルを飛び出す。馬に鞍を載せる間ももどかしく、すぐに跨がって駆けていく。
呆れ顔で見送ったタゴサは溜息を吐いて、
「何をやっているんだか……」
そう呟いて戸張の中に消える。
ムジカは陣中を風のごとく駆け抜けると、大ゲルへ至って謁見を求める。通されるなり平伏して昨夜の失態を幾度も詫びれば、インジャは大笑いして、
「大声を出さないでくれ。実は私も少々頭が痛いのだ」
「えっ?」
呆然とこれを見返せば、莞爾と笑って、
「今後、神風将軍と飲むときは心せねばなるまい」
「はぁ……」
わけのわからぬままに恐縮する。が、やがてはっと気づいて、
「ハーンは『今後』とおっしゃいましたか。では……」
頷いて、
「うむ。近日中に兵を率いて合流するはずだ」
それを聞いてムジカの顔がぱっと輝く。そして言うには、
「安堵しました。私はもう、不安で不安で……」
喜び合ううちにも黄金の僚友が集いはじめる。だいたい揃ったところで神風将軍の帰投を告げれば、方々で祝福の声が挙がる。獬豸軍師サノウが進み出て、
「セント軍八千騎を得たことは実に喜ばしいかぎりです。しかし彼らをここに呼ぶのは上策とは言えませぬ」
「なぜか」
「さらに良策があればこそ。神風将軍はもとより東方にあるのであれば、霹靂狼と合流せしめるべきでしょう。さすれば我が軍は両翼相揃うことになります。そして三方より攻め下れば、いかな四頭豹といえども防ぐ方策はありますまい」