第一一三回 ④
チルゲイ牛山に奇計を尽くして衆庶を全うし
ムジカ幕営に妻子に見えて芳名を与う
もう三日ほどでジョルチ軍と合流できようかというところまで来たとき、マクベンが尋ねて言うには、
「奇人殿、あの『火牛の計』はどうして思いついたのだ」
嬉しそうにふふと笑うと、
「人の話はよく聞いて、覚えておくものだ。以前、神都でサノウの家に在ったときに教えられたのだ」
チルゲイが聞いたところによると、かつて中華が百の国に分かれて相争っていたころ。海に面したとある大国が隣国に侵されて、残すは数城のみという苦境に陥ったことがあった。
城は厚く包囲されて、互いに孤立していた。そこである城主が一計を案じたが、それこそ「火牛の計」であった。
火牛を先頭にどっと押し出すと、敵軍の混乱に乗じて包囲を破り、次々と奪われた城を取り戻して救国の英雄と称えられたという。
「……まあ、そういうわけで『火牛の計』は私が案出したものではない。何千年も前に先人が在ったのだ」
屈託なく笑う。マクベンはおおいに感心したが、くどくどしい話は抜きにする。
その後は格別のこともなく、先にムジカらと別れたクルチア・ダバアにあと一日と迫る。ここで先行した人衆と再会する。タゴサは涙を流して喜んだ。御者を務めた少年は、おおいに褒められて得意満面。
いよいよジョルチ軍を訪ねんとすれば、少年が言うには、
「ジョルチン・ハーンの大軍はすでに去ってしまいました」
どうしたものかと悩んでいるところへ、二騎の将が近づいてくる。はっと身構えたが、不意にオノチが声を挙げて、
「あれは、ジュゾウとマルケではないか」
それはまさしく迎えにきた飛生鼠と白面鼠であった。好漢たちは互いに喜び合う。ジュゾウが言うには、
「我が軍は碧水将軍を降したあと、南進してクフ平原に営している」
「ははあ、行き違ったか」
一同は早速あとを追うことにする。そこでマルケが、
「人衆については超世傑殿より伝言がございます」
聞けば、ゾルハンがこれを率いて西北に向かえとのこと。重ねて言うには、
「すでに獅子マルナテク・ギィ殿に早馬が達しております。アラクチワド・トグムに赫彗星ソラ殿が迎えにくることになっています」
ソラの名を聞いてゾルハンは目を細める。言うまでもなく彼はジョシ氏の出身なれば、嬉々として引き受ける。
その日は、四方数百里に敵影のないことも判ったので、その場に野営して疲れを癒すことにした。出発は翌日に決する。
ところが夜が明けても彼らは移動することはできなかった。なぜかと云えば急にタゴサの陣痛が始まったからである。こうなっては奇人の智恵も、好漢たちの武勇もまったくの役立たず、女どもが忙しく動くのをただ見ているばかり。
待つだけのときが過ぎて、やっと高らかに産声が挙がる。わっと幕舎のうちに駈け込めば、タゴサが笑顔で応えて言うには、
「ムジカのあとを継ぐ子です」
侍女の抱く赤子は、拳をしっかと握って威勢よく泣き続けている。チルゲイが感想を述べて、
「何とも健やかな子ではないか。頬に光ある相だ。きっと天下に聞こえる英傑になるぞ」
オンヌクドらもそれぞれ祝福すれば、タゴサが言うには、
「名はムジカに付けてもらおう」
諸将は喜んで賛成する。早速ジュゾウが先行して報せることにした。彼らはなおタゴサを休ませるためにその場に留まった。
幾日か経って、ジュゾウが何とムジカ本人を連れて帰ってきた。族長の姿を見て、人衆から歓呼の声が挙がる。みな走り寄ってきては涙を流して跪拝する。それに応えながら妻の待つ幕舎へ急ぐ。
「おお、タゴサ……」
「ムジカ……。みなのおかげであなたの子を産むことができたわ」
「すまない。苦労ばかりかけて」
「つまらないことは言わないで。さあ、この子に名を」
しばらく考えていたが、やがて言うには、
「この子は我が氏族の新たな時代に生まれ合わせた。戦に敗れ、暴君を去って義君に投じ、虎口を脱して再び相見えた日に生まれた。すべてはここより望めるクルチア・ダバアから始まったことだ」
一同はムジカの横顔を注視する。漸く口を開いて言うには、
「永えの天の力にて、名を与えよう。『クルチア・スルデル』の名を」
「クルチア・スルデル……」
誰もが異口同音に和する。その意はすなわち「鋭き吉兆」。ムジカはみなを見回して、
「この子が新しき和の結び目となるように。新しき世の象徴となるように」
わっと歓声が巻き起こり、幕舎のうちは祝福の叫びに満たされた。
「幸いもてるジョナン氏!」
「幸いもてるジョルチン・ハーン!」
「そして、幸いもてるクルチア・スルデル!」
外に集まった人衆にも伝えられ、歓呼の声は草原に轟きわたった。
このクルチア・スルデルこそ、のちにインジャの子を翼けて大長征を成す名将となるのだが、それはまだずっとずっと先の話。
ともかく懸案が解決し、今は新たな主君の下に馳せ参じるばかり。それはまさしく小河の大河に投じるがごとく、あるいは群羊の牧童に従うがごとく、主星の導くところ宿星の感応せざるはなしといったところ。
果たしてムジカらはジョルチン・ハーンの下でいかなる活躍を見せるか。それは次回で。