第一一三回 ③
チルゲイ牛山に奇計を尽くして衆庶を全うし
ムジカ幕営に妻子に見えて芳名を与う
シャギチはおおいに怒って、
「ひ、卑劣な! ……よいか、見つけ次第斬れ! もとより奴らは罪人だ!」
さらに進んでいくと、左手からどっと喊声が挙がる。はっとして見れば、女どもが大勢で囃し立てている。すでに頭に血が上っていたので、怒声を挙げて突進する。
と、卒かに足許の地面が消えた。止まる暇もあらばこそ、騎兵は絶叫とともに地の裂け目へと転落していく。
何が起こっているか判らぬ後続の兵があとからあとから押し寄せて、次々と落ちる。大声を挙げて制止しようとしたものもあったが、虚しく押し出されて悲鳴だけを残す。やっと足を止めたときには、すでに多くの命が失われていた。
シャギチはおおいに憤慨するも、まさに「覆水盆に返らず」といったところ。謀計あるを戒めて先へ進んだが、誰もが冷静さを欠いたまま。
その先も進むほどにあらゆる罠が待っていた。落石に打たれ、牛馬の糞尿を浴びせられ、また張り渡してある綱に脚を取られ、人影を見て分け入ったところ網に搦めとられ、みるみる数を減じていく。
「くっ、小癪な! 卑怯な!」
喚くばかりで一向に状況は好転しない。惨憺たる有様でなおも行くと、前方に一騎の将が立っている。
「ようこそ、亜喪神の狗どもよ」
かっとして駆けだした騎兵は、数歩も行かぬうちにもんどりうって倒れる。見れば額に深々と矢が刺さっている。いつ放ったか、目にも留まらぬ早業に赤軍の兵衆はあっと驚く。
その将こそ誰あろう、雷霆子オノチ。シャギチは業を煮やして叫んだ。
「何をしている! たかが一騎ではないか、やれ!」
勇を奮い起こした兵衆は一斉に喊声を挙げると、オノチ目がけて殺到する。
と、オノチは馬首を廻らして去る。躍起になって上り下り追っていくと、オノチはふと脚を止めて、ひょうと鏑矢を放つ。
するとどこからともなく、どどっと音がした。何の音かと見回せば、卒かに一方から恐ろしい勢いで大量の水が噴き出してきた。
「わぁっ、水だぁっ!!」
叫ぶ端から奔流に呑み込まれる。激しく渦巻く濁流は人馬を巻き込み、四方に広がりながら彼らを押し流す。これもウヘル山に入った初日に、土嚢を積んで備えていたものである。
運好く逃れたシャギチは、またも歯噛みして悔しがる。見れば敵の将は成果を見届けて悠々と去っていく。
幸い水の量はそれほど多くはなく、やがて引いていった。ついには小さな流れが行く手を横断しているばかりとなった。残った兵を纏めて前進を命じる。倒れ伏す人馬を踏み越え、飛沫を上げて先へ進む。
また人影がひとつ。彼らを指して呵々大笑すると言うには、
「諦めればよいものをまだうろうろしていたのか。兵馬の浪費だぞ、帰れ、帰れ!」
テンゲリを仰いで再び大笑い。無論、奇人チルゲイである。これを聞いて怒らぬものはなく、手に手に得物を掲げて襲いかからんとする。
だが怒声が悲鳴に変わるのに暇はなかった。またしても正体不明の、どどどっという音がしたかと思うと、エトゥゲンが激しく震動する。
「な、何だ、何だ!?」
動揺する兵衆は、最初は己の目に映ったものが何かすら判らなかった。やがて、
「わぁっ、牛だ、牛の群れだ!!」
何と角に炬火を結びつけた大牛が、一群となって猛進してきたのである。十や二十ではなく、数十頭、いや数百頭とも見える大群。たちまち騎兵は圧し潰され、撥ね除けられ、絶叫が山間に満ちた。
牛の群れが下っていってしまうと、立っているものもなく寂として声もない。チルゲイは冷徹にそれを眺めていたが、やがて呟いた。
「……壊滅」
傍らにマクベンとアルチンが佇立する。口々に言うには、
「奇人殿の謀計、まさに神智だな」
「家畜が惜しい気もするが、まずはよかったな」
チルゲイは答えずにまだぼんやりと彼方を眺めていたが、俄かに我に返ると、
「さあ、まだ先は長いぞ。ムジカに見えるまでは安心できぬ」
彼らは預かった五百騎と、計を成すべく残った女どもを集めて、北を指した。先行した人衆はかなり遠くまで進んでいるはずである。道中は夜に進み、昼は隠れて十分に警戒しながら進んだが、意外にも何も起こらなかった。