第一一三回 ①
チルゲイ牛山に奇計を尽くして衆庶を全うし
ムジカ幕営に妻子に見えて芳名を与う
さて、ジョナン氏の留守陣に至った奇人チルゲイたちは、女子や老人を集めて、それぞれ任務を授けた。そして一人の少年に託して打虎娘タゴサを先に逃がす。
チルゲイが言うには、
「さあ、ここからが難しい」
好漢たちの顔に緊張の色が走る。あれこれと準備に奔走して夜、女衆から報告が入る。
「敵兵どもは酒を飲んで、すっかり弛んでおります」
チルゲイが頷いて、
「今しばらく待て。酒と肉を絶やすな。二刻経ったら最初の家畜を移動せよ」
やがて二刻が過ぎ、次の報告が行われる。
「家畜は無事に離れました」
その夜はそれだけで終わる。ゲル群は音もなくひっそりと静まりかえり、ときに狗の遠吠えが響くばかり。
翌日、また大量の羊が屠られ、南の敵陣へと運ばれていく。一方で子どもが家畜を追って北へ向かう。夕刻、老人を乗せた車が一台、また一台と去りはじめる。次第に緊張が高まる中、好漢たちは駆け回って、
「あわてるな。今日中にすべて終わらせる必要はないのだからな」
そう言って人衆を安んじた。夜もまた酒食の運搬と家畜の移動を行う。そうして五日目の朝が明けたとき、笑小鬼アルチンが言うには、
「だいぶ家畜が減った。さすがにそろそろ気づかれるぞ」
「饗応で気を逸らすのも限度か。よし、次の計だ」
そこで女どもを集めて言うには、
「今夜、ここを引き払う。帰って準備をしておけ」
一人の女が発言を求めて、
「まだ家畜が半分も残っておりますが……」
「すべては無理だ。諦めるしかない。家畜はまた殖やせばよい。きっと義君が援助してくれるだろう」
みながっくりと肩を落とす。草原の民にとって、家畜は生死に繋がる貴重な財産である。無論、好漢たちもそれを知っているので気が重い。だが人衆を励まして最後の手はずを整えると、
「さあ、いよいよだぞ、いよいよだぞ」
チルゲイは目を輝かす。
昼、最後の家畜移動が行われる。そして夕刻、これまでに倍する酒食が赤軍の陣営に運ばれる。その間に人衆はいつでも逃亡できるよう、心を決めて号令を待つ。二刻過ぎたところで、チルゲイはみなを集めて、
「衆庶を定められた順に逃がせ。急かしてはならぬぞ」
「承知」
答えると好漢たちは方々へ散っていく。しばらくすると馬の嘶きや、車軸の立てる音が微かに聞こえはじめる。オンヌクドらが戻ってくると、チルゲイは、
「我々の為すべきことを為そう」
そう促して馬上の人となる。軽い甲を付け、手には得物を携える。すなわち奇人は細身の剣、奔雷矩は棒、皁矮虎と笑小鬼は槍である。
馬の口に枚を銜ませると、遅足でそっと敵陣に近づく。警戒は薄く、ときに哄笑が起こるのを遠くに聞けば、すっかり宴に興じている様子。チルゲイはほくそ笑むと、囁いて言った。
「やはり亜喪神の兵だ。魯鈍なところは主と同じだ」
「しっ!」
オンヌクドに制されて舌を出す。
四騎は篝火を避けて、陰から陰へ素早く駆ける。目指すは敵の軍馬である。それはひとつところに繋ぎ止めてあった。闖入者を見て落ち着きなく脚踏みしたり、鼻を震わせたりする。
「おとなしくしていろよ」
言いつつ馬群の中に入っていくと、結んである綱を片端から断ち切っていく。ほかの三騎もあちこち駆け回ってはこれに続く。
あっと言う間にほとんどの馬を解放すると、チルゲイはひゅっと口笛を吹いて馬首を廻らす。鞭をひとつ入れれば、反応よくどっと駆けだす。ほかの三騎も遅れじとばかりに馬腹を蹴る。
すると綱を切られた千頭の馬も、我先に四騎のあとを追いはじめる。卒かに夜の静寂は破られ、馬蹄の響きがエトゥゲンを揺るがす。
あわてたのは赤軍の兵衆である。
「何ごとだ!」
「馬が、馬が逃げたっ!」
「追え、追え!」
あわてて酒杯を投げて、足を縺れさせながら飛び出したが、酩酊して思うように動けない。お互いにぶつかっては罵り合う有様。
何とか馬捕竿などを持ち出してはみたものの、肝心の騎るべき馬がない。百人長が、ただ追え、追えと喚き散らす。やむなく自らの足で走っていくが、すぐに息が切れて前に進めない。中には草の上に嘔吐するものまでいる。