第一一二回 ④
ムジカ大義を説いて碧水将を動かし
チルゲイ女子に託して打虎娘を走らす
「なるほど。ではそれを初めに何とかしよう」
チルゲイはそう言うと、一人の若い女に、
「お前は女どもを百人ばかり指揮して、酒類、肉料理などを毎昼夜、敵陣に運べ。量を惜しんではならぬ。たっぷり運ぶのだ」
「それだけでよいのですか?」
にやりと笑うと、
「お前は賢いな。たしかにそれだけではいかん。乳酪も忘れるな」
女が神妙な顔つきで去ると奇人は一人で大笑い。笑い収めると次は三人の老人に向かって、
「ご老公方にはもっとも重要な任務をお願いしたい」
そう言ってムジカの投降と、ここを逃れる意図を伝える。老人たちは愕然としてものも言えぬ有様だったが、励まして言うには、
「かつての勇者と見込んでお嘱みします。衆庶を説いて混乱を防いでいただきたい。敵人に気づかれぬように」
「……承知」
「何も心配は要りません。みなが得心したら、年老いたものから逃がします。車の手配を併せてお願いします」
老人たちは首を振りつつ退出する。チルゲイはこれを戸張まで見送ると振り返って言った。
「さて麗しきご婦人方は、いつでも退去できるよう準備を始めよ。ゲルはそのまま置いていくゆえ、大事なものだけすぐに持ち出せるようにしておけ。それとここからは重要だからしかと聴け」
女どもを順に見回すと、
「今夜半より家畜を移動する。行く先はウヘル山。そこでゾルハンが待っている。牛を先にし、羊を後にせよ。牝馬を送り、騙馬を残せ。一度に動かすのは全体の一割。明日の昼にまた一割、夜にまた一割を動かせ」
さらに細かく指示を出し、幾度も言い聞かせてやっと女たちを解放する。最後に少年が一人残る。少年は目の前で行われようとしていることの重大さをすでに覚って、おおいに緊張していたが、思いきって言うには、
「僕は、私は何をすればいいのですか?」
「君にはもっとも名誉ある任務を授けよう。巧みに馬を操れるか?」
少年は顔を真っ赤にすると、唇を尖らせて言った。
「操れます! ほかの子どもには、いや、大人にだって負けません!」
憤然としたその様子を見て、莞爾と笑うと、
「ならばよろしい。安心して打虎娘を預けよう」
「えっ……?」
少年は口をぽかんと開けて、チルゲイの笑い顔を見上げる。
「どうした、馬を巧みに御すと言ったではないか。これからすぐに打虎娘を護って北へ駆けるのだ」
「え、え、僕が!?」
「できぬか」
意地悪く問えば、強く首を振って、
「いえ、できます! 命に代えてもご夫人をお護りします!」
チルゲイはいきなり少年の頭を拏むと、その目を覗き込んで諭して言うには、
「おい、『命に代えて』などと軽々しく言うな。そういうときは『余裕です』と答えるのだ」
「はい、余裕です!」
傍らからタゴサが口を挟んで、
「あまり小さい子を揶揄うんじゃないよ。それに私は最後まで残るよ。みなが無事に出たら行くわ」
するとチルゲイはがらりと表情を改めて、
「それはならぬ。君と、君の子を無事に連れ帰るとムジカに誓ったのだ。先に行け。ここには私と奔雷矩らが残る。それとも我らだけでは不安か?」
タゴサはその顔をまじまじと見ていたが、やがて小さく言った。
「悪かったわ。言うとおりにする」
目を伏せて深々と拝礼すると、
「奇人殿、みなをよろしく嘱みます」
無言で頷くと、少年を急かして車の調達へ走らせる。ゲルで待つ彼らのもとに逐一報告が入る。それを受けてまた細かに指示を出す。そうするうちにタゴサを乗せる車が用意できる。チルゲイは少年に言い含めて、
「あわてる必要はない。見てのとおりご夫人は子を宿している。丁寧に馬を駆れ。悪路は迂回して、平坦な道を行け。ひたすら慎重にな」
堅く唇を結んだ少年は幾度も頷く。
「気を楽に……、と云っても無理か。ともかく任せたぞ」
タゴサは好漢たちに後事を託して車に乗り込む。側使いの少女が続く。少年は頬を引き締めて手綱を執ると、大人のように拱手して、
「では、行きます」
一同もこの小好漢に返礼する。高いかけ声とともに車は走りだす。しばらく見送ったのち、チルゲイが顧みて言うには、
「さあ、ここからが難しい」
応じてオンヌクドらも緊張の色を浮かべる。
人衆と家畜は部族の根幹といえども、敵地にあっては行動の障りとなることは言うに及ばず、ことごとく保つのははなはだ難しいもの。譬えて云えば「累卵の危うきをもって盤石の堅きを撃つ」がごとく、干戈至れば鎧袖一触、抗う術とてない。
然れども古言に「セチェンは謀をもって争い、バアトルは力をもって戦う」とあるとおり、眼前に一万の精鋭なくとも胸中に十万の甲兵ありて、まさに暴戻の敵に当たらんとすといったところ。
果たして奇人の成策とはいかなるものか。また打虎娘は無事に逃れうるだろうか。それは次回で。