第一一一回 ④
マルケ胸中に甲兵を有して敵営深く
オラル死地に両将を撃つも勇戦虚し
幕舎にオラルが連行された。インジャは親ら立ってその戒めを解き、席を与えた。オラルが驚いていると、
「私がジョルチ部ハーン、インジャです。碧水将軍の勇名は遠く聞き及んでおりました。数々の非礼は戦時のこととてご容赦願いたい」
「なぜ、敵将にこのような……」
インジャに幾度も繰り返されてきた質問である。ムジカのときと同じように誠心をもって語りはじめる。
「そもそも南征に及んだのは好漢たちと争うためではありません。ヤクマン部を滅ぼし、草原に覇を唱えようと画したわけでもありません。私はただ草原に秩序と平和あることを願うのみ」
続けて言うには、
「そこで中華と結んで草原を殆うくせる禍乱の元凶、すなわち英王トオレベ・ウルチと四頭豹ドルベンを除き、人衆の苦難を払わんとしているのです。そもそも人衆を害し、財産を奪う気など微塵も持ち合わせておりません」
オラルは困惑しながら、その色の薄い眼でこれを見返す。インジャは言葉を継いで言った。
「聞けばトオレベ・ウルチは、梁公主に誑かされて、忠良の臣を虐げ、仁義の士を陥れているとか。おかげで善心あるものは懼れ、奸心あるものが栄えている有様。数多の好漢が苦しみ悩んでいると知って、心を痛めておりました。かくのごとき非道がテンゲリに嘉されるはずがありません」
その表情は曇り、眉間には深い皺が刻まれる。オラルは思わず、そのとおりだと頷きそうになったが唾を呑み込んで堪えると、
「なぜそのような話をされるのですか?」
するとインジャはその手を取って、
「願わくば、ともに奸者を討つべく戦っていただきたいのです」
「えっ……」
すぐには答えることもできないでいると、
「もちろん即答いただかなくて結構です。将軍は陣中にて客人としてご滞在いただきます。後日改めてお伺いしましょう」
「もし私が助力できぬと言ったら……」
微笑を浮かべて言うには、
「やむをえません。お帰りいただくことになるでしょう」
またオラルは瞠目して、
「殺さないのですか」
「私は好漢の命を奪う剣を持っておりません」
「…………」
インジャは顧みて、セイネンにオラルを預けた。去り際にふと尋ねて、
「超世傑は……?」
すると予想もしなかった答え、すなわち、
「やはり我が陣中に客となっております」
「それはいったい……?」
セイネンが傍らから、
「のちほどゆっくりとお話しいたしましょう」
そう言ってこれを促して去る。
さて論功行賞によって第一の功はトオリル、第二の功はマルケが得た。あとの諸将も功に応じて賞される。
続く戦勝にみなおおいに喜び、夜営を張って再び祝宴に興じた。初めてムジカも末席に連なったが、どこか浮かぬ顔。やがて思いきって言うには、
「碧水将軍も捕らえられたとか」
「はい。百策花の陣営にいるはずです」
「会って話をしたいのですが」
インジャは嬉しそうに答えて、
「私はかまいませんが」
拝謝すると卒かにその場に平伏する。周囲の好漢はおおいに驚いて、一斉に言葉を失う。インジャも目を円くして、
「いったいどうしたのです。将軍、席にお戻りください」
従わずに叩頭して言うには、
「あれからずっと考えていたのですが……」
努めて呼吸を調えると、やがて決然と顔を上げて、何と言ったかと云えば、
「願わくばハーンの臣となることをお許しください。奸を滅し、邪を誅する戦の先鋒をお命じください」
居並ぶ好漢は、おおうとどよめく。インジャが言った。
「将軍、頭を上げられよ。ご夫人の安否も知れぬというのに……」
「いえ、我が心は定まりました。早く正道に還らねばならぬところを躊躇したばかりに、奇人殿や我が僚友を危地に送ってしまったことを恥じています。ハーンの深き水のごとき厚情を賜りながら、決断が遅れたことをお恕しください」
「では……」
「はい。ハーンの剣となり、我が人衆の憂いを、そして世の擾乱の根源を断ちたいと思います」
まず美髯公ハツチが奇声を挙げて歓喜を表したのを機に、座はどっと盛り上がる。みな席を立ってインジャに祝福を述べ、次々にムジカの杯を満たして新たな僚友を歓迎する。ムジカは頬を上気させつつ言うには、
「碧水将軍は我が盟友です。これを説いてハーンに帰順させましょう」
インジャはおおいに喜んでこれを許す。
このことからまた一士の不善を去って善に附くということになるわけだが、まさしくテンゲリの定めには抗いがたく、宿星おおいに運って主星の下に馳せ来たるといったところ。
義君の陣容はいよいよ整い、好漢名将まさに綺羅星のごとく相集う。果たしてムジカの説得は功を奏するか。それは次回で。