第一一一回 ②
マルケ胸中に甲兵を有して敵営深く
オラル死地に両将を撃つも勇戦虚し
イレキ軍が陣を払ったことは、ほどなくウリャンハタ軍の知るところとなった。衛天王カントゥカは頬を綻ばせると、
「アサン、嵌まったな」
「我らもあとを追いましょう。麒麟児よりも花貌豹に命じるのがよいでしょう」
「なぜだ」
「麒麟児は先の失態で頭に血が昇っております。このたびは敵を捕捉するのが主眼ではありません。距離を保って敵の退路を扼する任務。花貌豹のほうが適しています」
潤治卿ヒラトや渾沌郎君ボッチギンも同意したので、サチに勅命が下る。これを聞いたシンは憤慨したが、例によってアサンが宥めてやっと得心する。サチ率いるカオエン軍五千騎は悠然と動きだす。
イレキ軍はオルグ・ヤス台地を指して、道を倍する勢いで疾駆する。幕僚の一人が息を切らして言うには、
「もう少し足をお緩めください。人馬ともに疲弊しております。脱落するものが出るやもしれませぬ」
オラルは一瞥をくれると、
「命を棄てたければ休むがいい。今は一刻も早くムジカと合流せねばならぬ。然らずんば、いずれウリャンハタの手にかかって死ぬだろう」
その語気に幕僚は息を呑んで口籠ると、目を伏せてあたふたと謝す。オラルは再び前方を睨んで先を急ぐ。かくして一万数千騎は気息奄々たる有様でただただ駆け続けた。
一日を駆け通してやっと休憩の令が下った。誰もが悲鳴を挙げつつ草の上に臥した。オラル自身も馬を降りた瞬間、よろめきそうになったが、奥歯を噛みしめて堪える。即座に夜営を命じて歩哨の輪番を定め、斥候を放つ。
初めに任務を得た不運を嘆く兵衆を叱咤し、自ら設営を督励して回ったあと、幕舎に戻ってやっと腰を落ち着ける。知らぬ間にうとうとしていたところ、戸張に人の気配がして、はっと目が覚める。見れば幕僚の一人が立っている。
「何だ?」
「族長、明日は……?」
「夜明け前に出立。ハラ・アビドを一気に抜ける」
過酷な行程に幕僚は青ざめたが、何も言えずに去る。
オラルは寝台に横になりたい誘惑に駆られたが、首を振って外に出た。兵衆はみなぐったりと寝そべっている。テンゲリには白い月がくっきりと浮かんでいる。それを見上げると感心した風に、
「月とはあんなに大きなものだったか」
辺りは沈み込まんまでの静寂。歩哨の足音、休息する兵士の荒い呼吸だけが聞こえてくる。オラルは卒かに言いようのない不安に襲われて身震いした。命、旦夕に迫る碧水将の陣だが、何ごともなく夜は更けていく。
早朝、予告したとおり出立する。憂鬱でないものは一人とていない。結局、心が騒いで一睡もできなかったオラルの目の下には、色濃く疲労が表れていた。さっと旗が振られて騎乗を促す。
昨日にも勝る強行軍となった。蓄積せる疲労、大将の険しい顔、先の見えない戦況、何もかもが士気を低下させる要因となった。ハラ・アビドが視界に入る。オラルは手綱を引いて停止を命じる。加えて言うには、
「あの森を越えたら、たっぷりと休ませてやる! もう少しの辛抱だ」
それを聞いてもわっと歓声が挙がるでもない。舌打ちしてすぐに出発を命じようとすれば、幕僚が諫めて、
「お待ちください。せめてここであと半刻の休息を……」
かっとするとこれを叱り飛ばして、
「愚かな! 何のために急いでいると思っているのだ。ウリャンハタの追撃から逃れるためだろう。一歩遅れれば一歩分、一刻止まれば一刻分、追いつかれるのだぞ!」
「それはそうですが、もう十分に引き離したのでは……」
「麒麟児を甘く見るな。死にたければ残れ」
「…………」
オラルが麒麟児を覩る基準もやはり神風将軍アステルノである。もし仮に神風将の追撃から逃げるとするならば、今の行程ですらまったく十分ではない。
だが実際にあとを追っているのは花貌豹サチである。ときどき十分な休憩を取りつつ、しかし着実に踏跡を辿っていた。イレキの夜営跡を観察して、神道子ナユテに言うには、
「随分急いでいるようだ。碧水将の進軍、思ったより速い」
「麒麟児の幻影から逃げているのだろう」
「これではハラ・アビドに至るころには戦える状態にはないな」
「ははは、そもそも戦う気などなかろう。碧水将の得たる情報では、こちらがハラ・アビドに伏せる兵などない」
「そうだな」
カオエン軍はおもむろに追撃を再開する。