第一一一回 ①
マルケ胸中に甲兵を有して敵営深く
オラル死地に両将を撃つも勇戦虚し
奇人チルゲイはジョナン氏の好漢たちとともに、打虎娘タゴサらを救うべくその留守陣へと発った。
そのあとで飛生鼠ジュゾウが帰ってくる。気になるウリャンハタ軍の戦況を問えば、まだ交戦中とのこと。イレキ氏の族長、碧水将軍オラルの巧妙な戦術によって、一度は麒麟児シンが破られるほどの苦戦であった。
憂色を浮かべるインジャらにジュゾウが言うには、
「実は聖医殿から計略を預かってまいりました」
獬豸軍師サノウは、頷いてこれを促す。応じて小声で、
「聖医殿も軍師と同じようなことを言っておりましたよ。碧水将は、超世傑殿が敗れたことをいまだ知りません」
そこで、ムジカ当人がいることに気づいて、はっと口を噤む。視線を走らせれば、ムジカが覚って、
「私はまだハーンにお仕えすると決まった身ではありません。席を外しましょう」
美髯公ハツチに伴われて去る。それでもさらに声を低くして、
「そこで……」
アサンの計略を詳しく語れば、サノウはおおいに頷いて、
「まさに私の考えたものと同じだ。ジュゾウ、ご苦労だがまたウリャンハタの陣へひと走りしてもらいたい」
「それはかまいませんが」
「大カンに、聖医殿の計略、しかと承ったと伝えよ。今からジョルチ軍は聖医殿のお考えのままに動く」
「承知」
ジュゾウが去ると、インジャに向かって、
「碧水将は確実に敗れましょう」
ジョルチ軍はすでに疲れも癒え、気力は盈溢せんばかりであった。進発の命を受けて意気揚々と騎乗すると、胆斗公ナオルを先頭に陣を払う。
吞天虎コヤンサン率いる三千騎が残って、ジョナンの捕虜を監視する。ムジカは中軍に留め置かれ、行をともにすることになった。
一日進んだところでジュゾウが知世郎タクカを伴って帰ってきた。インジャはこれを接見すると喜んで言うには、
「草原に知らぬ地なし、と称される知世郎殿ですね」
タクカは恭しく拝礼する。傍らから百策花セイネンが言った。
「知世郎殿は地理に通暁しております。聖医殿の計を成すべき戦地を知らせに来られたのです」
「はい。戦うべき地は、ここより南西百二十里にある『ハラ・アビド(黒い肋骨の意)』なる森でございます。かの地はまさに天井、天羅と謂うべき地勢にて、いかな碧水将とて逃れる術はありますまい」
「よくぞ教えてくれた。では直ちにかかるとしよう」
タクカが退くと、白面鼠マルケを指名して言うには、
「概要は先に話したとおりだ。嘱んだぞ」
「お委せください」
マルケはすぐに去る。どこへ行ったかはすぐにわかること。
さて、アサンの計略のことなど知る由もないオラル・タイハンは、寡兵にて善く戦っていたが、兵馬の疲労は掩うべくもない。
またムジカの行方も杳として知れなかったので、しきりに援軍を催促した。だがともに敵に当たるはずだった緑軍のダサンエンは、言を左右にして応じない。
「あの奸臣め。部族よりも己が大事と見える」
日ごろは冷静なオラルも、目を瞋らせて吐き捨てた。額にある文字のごとき痣がくっきりと浮かび上がる。狼狽えるばかりで何の方略もない幕僚を顧みて溜息を吐くと、
「……ともかく超世傑と合流を果たさねばならぬ」
と、ちょうどそこへムジカから早馬が来たとの報せ。オラルはぱっと愁眉を開くと、これを招き入れて言うには、
「おお、ムジカは無事であったか。心配していたぞ」
「超世傑様の麾下でゾルハンと申します。ジョルチ軍と激しく戦い合っており、連絡の遅れたことを深くお詫びいたします」
「なるほど。ジョルチの旗を見ないとは思っていたが。……それでムジカは何処に?」
ゾルハンと称した白面の将は答えて言った。
「東方三百里、オルグ・ヤス台地に拠っております。至急、兵を動かして敵軍の後背を衝いていただきたいとのことです」
「よし、わかった。直ちに赴こう」
即断して全軍に命を下す。白面の将は拝謝してすぐに駆け去ったが、誰あろう、これこそ黄金の僚友の一人、白面鼠マルケであった。