第一一〇回 ④
マクベン奇人を面罵して衷心を吐き
インジャ降将に憐察して仁慈を賜う
インジャは目を瞠って、
「軍師の言ったことなら気になさらず行ってください」
「いや、疑いあるのは当然です。やはり誰かは残ったほうがよいでしょう。ならば私が残るのが最善です」
マクベンがあわてて、
「俺が、俺が残ります! 族長は一刻も早く夫人を……」
「私は君たちを信頼している。私が残る」
決意の固いのを覚って、みな頷かざるをえない。常に飄々たるチルゲイもこの態度には心を打たれて、
「よし、ムジカ、待っていろ。きっと打虎娘を連れてくるぞ!」
「奇人殿の為すことなら不安はない。委せた」
こうして一同は、幾度も礼を述べて退出する。あとには険しい顔のサノウが残る。みなが去ると諫言して、
「ハーン、よろしいのですか」
からからと笑うと、
「軍師は奇人殿を疑っているのか」
「そうではありませんが、あの男、よもやジョナンの諸将に利用されているのではありますまいな」
「奇人殿を? ほう、彼らが偽り降って逃亡を図っていると」
微笑を浮かべてサノウを正視する。やや狼狽えて視線を逸らし、数瞬考えたのち言うには、
「いや、それはないでしょうな」
「ははは。ならば心配は要らぬな」
そこで初めてノイエンが口を開く。
「軍師はとりあえず疑ってみる人ですから」
サノウはますます眉間の皺を深くしたが、くどくどしい話は抜きにする。
翌朝、インジャは諸将を集めてチルゲイの企図を告げれば、たちまち賛否両論巻き起こる。それをひと声で制すると、
「これは私が与えた勅命。とやかく言わないでほしい」
漸く諸将は口を噤む。チルゲイは拱手して恭しく拝命する。インジャは次いで、
「雷霆子。君が行ってこれを佐けよ」
指名されて驚いたものの、すぐに答えて言った。
「承知」
退出したチルゲイらは早速降兵の選抜にかかる。兵衆に計画を告げれば、誰もが我こそはと名乗りを挙げる。俊敏で気の利いたものを選ぶと、馬と剣を与えて、
「よいか、諸君! 超世傑殿のために、いや、己の家族のために四頭豹の奸謀を砕くのだ!」
五百騎は勇躍しておうと応える。彼らはチルゲイを先頭に、残されたものの激励に送られて出立した。陣を出るところでムジカとハツチが待っていた。主君の姿を認めて、兵衆から歓声が挙がる。チルゲイは馬を降りてその手を取ると、
「待っていろ、必ず打虎娘を助け出してくるからな」
「嘱む。だが無理はするな。そのために君が死んでは義君に合わせる顔がない」
「ははは、私が容易に死ぬものか」
再び馬上の人となると、手を振って別れる。随うは雷霆子、奔雷矩、皁矮虎、笑小鬼、そしてゾルハンの五将。
「南へ!」
号令に応じて一斉に馬腹が蹴られる。一路、ジョナンの留守陣指して駆けていく。ムジカらは真摯な眼差しでこれが地平の彼方に消えるまで見送ったが、この話はひとまずここまでにする。
さてウリャンハタに送られていたジュゾウが帰還した。ウリャンハタ軍はまだイレキ軍と交戦中とのこと。インジャが首を傾げて、
「碧水将軍の兵は一万騎と聞いたが……」
「それが敵は巧みに兵を合することを避け、追えば逃げ、進めば退き、カンの軍勢は広大な平原を奥へ奥へと導かれたのです」
「ほう」
感心して軍師を顧みれば言うには、
「大カンには必勝の策があろう。麒麟児を迂回せしめて碧水将の側背を衝けば」
「無論すでに試みましたが、それすらも巧みに逃れたばかりか、伏兵を配してこれに打撃を加えたそうです」
「何と!」
「碧水将はほかに五千騎を隠していたのです」
インジャはううむと唸ると、ムジカを召して事の次第を話した。しかし首を捻って言うには、
「碧水将の兵は多くて一万。五千もの騎兵が余分にあるはずもありません」
「どういうことだろう」
みな訝しんだが、実はこれこそ先に分かれた紅火将軍キレカの手勢であった。オラルはこれと連係して麒麟児の進撃を阻んだのである。サノウは表情を曇らせて言った。
「敵の兵力は一万五千と看做したほうがよい。それで聖医殿が何か言っていなかったか」
「はい、よくご存知で。実は聖医殿から計略を預かってまいりました」
応じてジュゾウがあることを語ったのであるが、このことから義軍興って平原を征き、名将の心肝を寒からしめることになる。
すなわち好漢の智略再び冴えて、義君に新たな翼を加えんといったところ。果たしてジュゾウは何と言ったか。それは次回で。