第一一〇回 ③
マクベン奇人を面罵して衷心を吐き
インジャ降将に憐察して仁慈を賜う
ムジカはおおいに驚いて、
「えっ、……今、何と!?」
「打虎娘を取り戻すぞ! いや、兵衆の家族ともども逃がしてやろう!」
勢いにやや押された様子で言うには、
「そ、そんなことができるのか。もしそれがかなえば、私とて迷わぬ。しかしそこまで嘱むのは……」
「いや、決めた! 四頭豹の手法、気に入らぬ。ならばそれを頓挫せしめるのは痛快であろう。そうとなれば早速、インジャ様の了承を得よう」
チルゲイはみなを急き立てると、呆然とするハツチをあとにして外に連れ出す。わけのわからぬままにムジカは手を引かれて歩く。はっと我に返ったハツチが追ってきて、
「無理を言うな、わしがハーンに咎められる」
「何だと! 『義を見て為ざるは勇なきなり』だ。ハーンには私から申し上げる」
「そうはいかぬ。わしも参る」
果たしてインジャはまだ起きていた。衛兵を押し退けると、いきなり戸張をくぐって躍り込む。
「インジャ様! 夜分にすみません。お話がございます」
「奇人殿ではないか。何ごとだ、騒々しい」
ちょうど獬豸軍師サノウと軍政に関して話しているところだった。背後には飛天熊ノイエンの巨躯がある。眉を顰めるサノウにはかまわず歩み寄ると、ムジカらを指して事の顛末を語る。そして、
「……というわけでムジカや兵衆の家族を救わんと思うのです。その憂いさえなくなれば、彼らはハーンにお仕えすると申しております」
思わずサノウと顔を見合わせると言うには、
「たしかにそうなればよいが、方策はあるのか?」
チルゲイは得意そうに胸を叩くと、
「ご心配なく。万事ここに」
インジャはううむと唸って、その顔を覗き込むと、
「何が必要か?」
「おお、さすがは義君! ご助力いただけますか!」
傍らのサノウがややあわてて、
「お待ちください! この忙しいときにいったいどういう……」
たちまち制して、
「軍師、ともかく奇人殿の意見を聞いてみよう」
「ハーンがそうおっしゃるのならば……」
やむなく口を閉ざす。チルゲイはひとつ咳払いすると言うには、
「今が南征の最中であることはもちろん承知しております。多くは望みませぬ。できますれば馬を数頭、それから好漢を一人お貸しいただきたい」
呆気にとられて、
「それだけでよいのか?」
「はい。それとこれは重要なことですが、超世傑をしばらく私に預けてください。必ずともに戻りますので」
インジャはすぐには返す言葉もない。サノウが呆れかえって、
「おい、自分が何を言っているか解っているのか? 超世傑殿は、こう言っては悪いが捕虜の身だぞ」
「解っている。こればかりは信じてもらうよりない」
「君が約しても意味はない。もとより私とて超世傑殿の信義に厚いことを疑うわけではない。私が言わんとしているのは、ジョナンの人衆がこれを留めて返さぬかもしれぬということだ」
そこでムジカが進み出て言うには、
「お待ちください。奇人殿、無理を言ってはいけない」
「無理なものか、このままではいずれにせよ打虎娘らは四頭豹の手にかかるぞ。君の子もともに……」
インジャがはっとして、
「子とはどういうことだ」
マクベンが進み出て言った。
「族長の夫人は御子を宿しておいでです」
その言葉にインジャはおおいに心を動かされる。なぜなら彼の妻、すなわちアネク・ハトンも、妊娠して山塞で待っているからであった。
「わかった。超世傑殿を信じて帰還を認めよう」
「ハーン!」
サノウが鋭い声で制したが、首を振って、
「よい。ほかにも必要なものがあらば遠慮せず言うがいい。兵でも将でも何でも」
チルゲイは少し思案していたが、やがて言った。
「ではひとつ。降兵のうち五百騎ほどお借りします。あとは何も要りません」
「よろしい。では成功を祈っている。ムジカ殿、また見えることを楽しみにしておりますぞ」
ジョナンの好漢たちはインジャの差配に感動して幾度も拝礼する。しかしその直後のムジカの言葉には誰もが驚いた。何と言ったかといえば、
「私はここに残ります。留守陣には奔雷矩、皁矮虎、笑小鬼とゾルハンを遣ってください」