第一〇九回 ③
ムジカ陣を払って九尾狐大功を成し
インジャ義を説きて断事官秘画を弁ず
漸くインジャは、ムジカ以下の敗将に目を向ける。ここに至って超世傑ムジカは端然と座し、胸を反らしてその視線を受け止める。
しばらく無言で見合っていたが、やがてインジャが立ち上がった。ゆっくりと近づくと、その戒めを解く。ムジカはおおいに驚いて、これを見上げる。すると言うには、
「天下に名高い好漢に対してこのような扱い、まことに申し訳ありません。タンヤン、彼らに席を」
顧みて言えば、タンヤンがはっとしてこれを用意する。その間にインジャは残る四人も解き放って言った。
「図らずもみなさまと戦場に争い、このようなことになってしまいました。非礼は、戦中のこととてお恕し願いたい」
ムジカらは呆然としていたが、やっと言うには、
「なぜ敗将たる我らにそのような……」
席を勧めながら莞爾として言うには、
「みなさまを好漢とお見受けしたからです。不幸にも意を通ずることができず、干戈を交えることとなってしまいましたが、内心では将軍とは戦いたくなかった」
「そ、それはまたどうして?」
問いに答えて、
「我々も将軍も、ともに四頭豹ドルベン・トルゲを敵としているからです」
この言葉に、ジョナンの諸将は少なからぬ衝撃を受ける。インジャはさらに説いて言った。
「このたびの南征は、私欲のために始めたものではありません。長らくトオレベ・ウルチに苦しめられたジョルチ部の、いや、草原全体の安寧を保たんがため、やむなく蜂起したのです。また四頭豹こそは最後まで我が部族の統一を阻まんとした奸物。私はこれとともにテンゲリを戴くことはできません。あえて天下に名高い超世傑殿と争う理由など、もともとないのです」
そしてその澄んだ目をムジカに注ぐ。
「なぜそのような話を私に?」
すぐには答えず、チルゲイに目を遣る。次いで言うには、
「そこにある奇人殿から将軍の噂を聞いて、久しく敬愛の念を抱いておりました。図らずもここでお会いできたので、是非とも私の信じる義を聴いていただきたかったのです」
ムジカはそこで初めて奇人の姿に気づく。
「奇人殿……」
チルゲイは数歩前に出て拱手すると、
「超世傑殿、お久しぶりです。陣中にて将軍の用兵を拝見しておりましたが、まったく英傑の名に恥じぬ見事なものでした」
「ははは、敗軍の将に何を言う」
自嘲して笑う。チルゲイは首を振って、
「いえ、決して揶揄して言うのではありません。私は天下のためにその才を惜しむもの。たかが四頭豹ごときの奸計で失うには、あまりに惜しい」
居並ぶ好漢たちは一斉に頷く。しかし彼らもまだインジャとチルゲイの意図はしかとは判らない。ムジカは小さく震える声で尋ねた。
「いったい奇人殿は何を言おうとしているのだ」
答えたのはインジャ。穏やかに言うには、
「その才を、乱世を終わらせるために使おうとは思いませんか?」
「えっ?」
「将軍を好漢と見込んでお願いいたします。どうか私に力を貸していただきたい。奸侫の徒を討ち滅ぼし、草原に平和と秩序を復するために」
あまりに意外な言葉に答える術も知らず、瞠目して眺め返すばかり。やっと絞り出すように言うには、
「そ、それは……。ヤクマンに、ハーンに叛け、と?」
俄かにチルゲイが声高に言った。
「違う! 君が忠義に厚いことは知っている。しかし、そのトオレベ・ウルチこそが大には中華と結んで草原を乱し、小には四頭豹を重用して好漢たちを陥れているのではないか。己とその盟友の境遇を思い出せ!」
「奇人殿……」
あとは無言でうなだれる。混乱して言葉が出なくなったのである。彼にとって世界はヤクマン部がすべてであり、草原全体のことなど考えたこともない。いわんやその麾下の諸将においてをやである。
さらにチルゲイは語を継いで、
「奸者を追い、平和が恢復すれば、すなわちヤクマンの人衆にとっても益となる。ゆえにトオレベ・ウルチ、梁公主、四頭豹の三人は絶対に亡ぼさねばならぬ」
ゾルハンをちらりと見遣ると、
「さもなくんば、第二、第三の赫彗星を生むことになろう。だいたい君とて欺かれたばかりではないか」
ムジカはたまらずチルゲイの雄弁を押し止めて、
「時を、時をもらいたい……。今は何が何だか……」
インジャが微笑んで、
「よろしい。好い返事をお待ちしております。ではハツチ、君が彼らを預かってくれ」
「承知」
重々しい調子で拝命する。従卒に促されて立ち上がったムジカは、はっとして振り向くと、
「ひとつお尋ねしたい」
「何なりと」
「私は愚昧にて、まだ己がどのようにして敗れたのか判りません。願わくば教えていただけないでしょうか」