第一〇九回 ②
ムジカ陣を払って九尾狐大功を成し
インジャ義を説きて断事官秘画を弁ず
一方、笑小鬼アルチンは、右往左往するうちに呑天虎コヤンサンに出合って、やはり擒えられた。これも丁重に本営に送るよう命じると、
「よし、追え、追え! 追い詰めろ!」
混戦にあってもよく通る大声で兵を叱咤して、真っ先に駆けだす。焦げた臭気の漂う道を抜けてムジカを追撃する。
そのムジカは僅かな手勢とともに再び坂道を登る。従う将はオンヌクド独り。さすがの超世傑も俯き、唇を噛んで、
「ああ、私は愚かだ。マクベンは、アルチンは、ゾルハンは、どうなったであろう……」
オンヌクドがこれを慰めて、
「過ぎたことを悔やんでもしかたありませぬ。何としても逃れて再起を図りましょう」
「兵が大勢死んだ。私はどんな顔でアイルに帰ればよいのだ」
そこではっと顔を上げると、
「ああ、これこそきっと四頭豹の狙いどおりに違いない……」
あとは黙して語らない。傍らを行くオンヌクドも、あれこれ慮って何も言えない。さらに主従が励まし合って登っていくと、卒かに金鼓が轟いて心臓が止まりそうになる。
「くっ、ここまでか……」
ムジカは鞍上にがっくりとうなだれる。
一群の騎馬が道を塞いでいる。進み出たのはジョルチの右王、胆斗公ナオル。別途を迂回して陣を張り、待ち構えていたのである。
「超世傑殿、我がハーンがお待ちです。どうか得物を棄てていただきたい」
ムジカは潔く諦めて従おうとする。兵衆もこれに倣ったが、独り奔雷矩は声を張り上げると、
「族長! ここは私に委せて、お逃げください!」
言うや否や、主の手綱を牽いて馬首を転じると、その尻を音高く鞭打った。馬はびくりとして狂ったように走りだす。ムジカはわけもわからず、ただその背にしがみつく。しばらく道を下ってやっと我に返ると、後悔の念堪えがたく、
「私ごときを救うためにオンヌクドまで……。何の面目あって人衆に見えよう」
と、前方から大勢の騎兵が来るのが目に入る。呑天虎コヤンサンを頭とする一隊であった。ムジカは咄嗟に下馬して道の脇に転がり込む。命を惜しんだわけではなかった。意識せずとも身体が動いてしまったのである。
やむなく道なき道を徒歩で進む。足を引き摺るようにして、岩があれば折れ、行き止まれば攀じ登った。何も考えずに彼は山頂を目指した。下れば敵騎が溢れている。望む望まぬにかかわらず、残された道は上にしかなかった。
幾度目かの登攀を終えたとき、不意に上から声がかけられた。
「お待ちしておりましたぞ」
ムジカはあっと驚いてうっかり手を放してしまった。身体が一瞬宙に浮いたが、その手がさっと攫まれる。
誰あろう、これぞ山岳戦に長けたオロンテンゲル山の好漢、九尾狐テムルチであった。ムジカはもはや抵抗する気もなくおとなしく従う。テムルチはこれを促して険しい道を下った。
主な将領をことごとく擒えたジョルチ軍は、ジョナンの兵衆に投降を呼びかけた。一万騎のうち応じたのは半ばの五千。あとはどうなったかといえば、もの言わぬ屍と化していたのである。
好漢たちは続々と帰ってきて復命した。ジョルチン・ハーンはこれをいちいち労った。左右に在るのは獬豸軍師サノウ、美髯公ハツチ、飛生鼠ジュゾウ、金写駱カナッサ、飛天熊ノイエン、長旛竿タンヤンである。
まずドクトがマクベンを伴って現れる。次いでコヤンサンがアルチンを、ナオルがオンヌクドを連れてくる。新たな虜囚が至るごとにみな快哉を叫ぶ。
その興奮は、テムルチがムジカを引いてきたときに最高潮に達した。ジョナンの諸将は主君の姿を見て、目を伏せて流涕する。
次いで百策花セイネン、百万元帥トオリル、雷霆子オノチ、白面鼠マルケ、霖霪駿驥イエテン、旱乾蜥蜴タアバ、左王ゴルタが戻ってくる。負傷した往不帰シャジも顔を見せる。これですべての好漢が揃った。
いや、もう一人、ウリャンハタの奇人チルゲイが最後に幕舎に入る。彼もまた一人の将を伴ってくる。すなわち紅き隷民の帥将ゾルハンである。
おもむろにインジャが口を開いて、
「みなよくやってくれた。軍師の智略はいつもながら驚嘆に価する。功績一等の栄誉は君が受けよ」
サノウは恭しく拝礼すると言うには、
「常々申しておりますが、私は帳幕に計を弄んだだけのこと。第一の功績は、山岳戦において抜群の才を発揮し、ついに超世傑を擒えた九尾狐にお与えくださいますよう」
これを聞いてテムルチは得意げに顎を上げる。サノウは続けて、
「次は、援軍を索めるゾルハンを故意に逃がし、また挟撃されて混乱したがごとく偽装して敵軍を誘い出した百万元帥こそ賞されて然るべきです。策戦において最も難しいところを能く務めました」
そう言ってあくまで賞与を辞退する。インジャも重ねては言わず、言葉どおりに二人を賞する。ジュゾウが傍らのノイエンに囁いて、
「まったく軍師も相変わらずだな。くれるものは貰っておけばよいのに」
余の好漢も、それぞれはたらきに応じて嘉賞される。