第一〇九回 ①
ムジカ陣を払って九尾狐大功を成し
インジャ義を説きて断事官秘画を弁ず
さてジョルチ軍を迎え撃った超世傑ムジカは、歩卒を巧みに用いてジョンシの宿将シャジを負傷せしめた。その後、戦は膠着状態に陥る。そこで「紅き隷民」を率いるゾルハンの進言を容れて、友軍を索めることにした。
笑小鬼アルチンの援護により首尾よく敵陣を突破したゾルハンは、碧水将軍オラルに会うべく草原へと繰り出した。
幾日か経て、斥候が紅き隷民の帰還を告げる。ムジカたちは狂喜して反攻せんと道を下った。またイレキ軍とジョルチ軍の間で戦闘が始まったことも伝わる。兵衆の士気は俄然高まった。
なおも進んでいけば、濛々と舞い上がる砂塵、入り乱れる旗などが視界に入る。期せずして兵衆はわっとどよめく。
ジョルチの旗幟の動きから判ずるに、その戦列はおおいに乱れ、逆に碧水将の青い旗は整然と押しているようである。ムジカは顧みて高々と右手を挙げると、
「我らの勝利は疑いないぞ! 全軍突撃!」
応じて一万騎の騎兵は、喊声を挙げて駆けだす。真っ先に飛び出したのは皁矮虎マクベン。槍を構えてまっしぐらに突っ込んでいく。
すでに追いまくられていたジョルチ軍は、後背からの攻撃に為す術もなく蹴散らされたかのように見えた。旗は倒れ、馬蹄に踏み躙られる。ムジカもあとに続いて馬を駆っていたが、ふと疑念が生じて、
「おかしい。敵軍が寡いような気がする……」
よくよく見れば、旗の数に比べてあまりにも敵兵が寡い。さらに奇異なことには、あれだけ乱戦を繰り広げていながら道に伏したる人馬の屍がほとんどない。俄かに青ざめると、力いっぱいに手綱を引いて、
「しまった、罠だ!」
しかしすでに遅く、兵衆は勢いよく道を下って砂塵の中へ突入している。と、突然、鼓膜を破らんばかりに銅鑼が轟く。驚いて周囲を見回していると、前方からわあっと悲鳴が挙がる。
はっとして見遣ったが、何が起こっているか判然としない。呆然としていると一騎の兵があわてて駆けてきて、
「碧水将軍の兵が、突如我が軍に攻撃を……」
我に返ると怒鳴りつけて言うには、
「違う! 欺かれたのだ。それはジョルチ軍の偽装だ!」
舌打ちして退却を命じようとしたところ、また銅鑼が鳴り響いて耳を掩う。それはまるでジョナンの兵衆の心を挫かんとするかのよう。
その銅鑼の音も消え去らぬうちに、さらに驚愕するべきことが起こった。道の左右に卒かにジョルチの旗が現れる。伏勢である。初老と見える武将がさっと手を挙げるや一斉に火矢が放たれる。
ジョナン軍はたちまち大混乱、逃れようにも道は狭隘、互いにぶつかり押し合っている間に恐慌が増すばかり。中には味方の馬蹄にかかるものまでいる有様。
さらにその将、すなわちタロト部のゴルタが手を振るえば、次々と岩石が投下される。あるいは頭蓋を割られ、あるいは肩を砕かれ、ばたばたと倒れ伏していく。
「おお、何ということだ……」
ムジカは眼前の光景に我を失い、恐怖に震えた。傍らに馬を寄せた奔雷矩オンヌクドがやはり蒼白な顔で言った。
「族長、ここは危険です。お退きください」
「あ、ああ」
やっと答えると、のろのろと馬首を廻らす。オンヌクドが大声で、
「退却、退却!」
すでに軍は分断されて支離滅裂となっていた。命令は末端まで届かず、多くの兵が現状を信じられぬままに死んでいった。
先頭で友軍と思っていた相手からいきなり攻め立てられたマクベンは、まだ馬上にあって奮戦していた。彼自身も何が起こったのかさっぱり判っていなかったが、ただ群がる敵に得物を振るうばかり。
そこへ一騎の将が近づいて言うには、
「おお、名のある将と見た! おとなしく得物を棄てるがいい」
「何奴だ!」
問えば、決然と胸を反らして答える。
「ジョルチにその人ありと謳われた癲叫子ドクトとは俺のことよ」
かっとして言い返して、
「そんな奴は知らぬ!」
「な、何だと……。来い!」
マクベンは槍を抱え直して新たな敵人に突きかかる。かたやドクトの得物も一条の槍。咆哮を挙げて迎え撃つ。
両個の槍が交錯して火花を散らす。二合、三合と打ち合ったが、やがてドクトの技が上回った。
退くことを知らぬマクベンが敢然と打ちこんできたきたのを軽く躱すと、伸びきった柄を下から撥ね上げる。たまらずマクベンは手を放し、得物は天空高く飛んで落ちる。
「喰らえ!」
癲叫子の手が一閃、皁矮虎はわっと身を伏せたが、狙いはもとより馬に在り、前脚を叩き折ればどっと崩れる。マクベンは地に放り出された。どっと兵が群がってたちまちのうちに縛り上げる。
「ええい、殺せ! 殺せ!」
おおいに喚いたが、
「本営に連れていけ。手荒に扱ってはならぬ」
ドクトはまた新たな敵を索めて戦場に分け入る。




