第一〇八回 ③
アルチン不意に趨きて往不帰を傷し
サノウ籌策を運らして紅隷民を逃す
ナオルらは敵が現れたという隘路(注1)を確かめる。テムルチが言うには、
「こうした岩山では馬の通れぬ道が随所にあります。ゆえに少数の歩卒をもって攪乱できるのです。もっと早く気づいていれば……」
「過ぎたことはよい。ここは九尾狐に委せる。君はずっと山塞に在って険隘の地での戦闘に詳しい。恃みにしているぞ」
「承知」
九尾狐テムルチは、義君インジャの挙兵初期から従う将である。オロンテンゲル山で癲叫子ドクトとともに降ってから、十年に亘って山塞を預かってきた。
ゆえに華々しい勲功はないが、平原で活躍する黄金の僚友の後背を常に安全たらしめてきた。ジョルチ随一の山岳戦の巧者と言ってよい。
テムルチは布陣を改め、歩哨の数を増やし、狭隘な個所に歩兵を伏せた。ナオルやゴルタもそれに倣って布陣し直した。
さて、首尾よく奇襲を成功させたアルチンとその一隊は、間道を伝って復命した。ムジカはこれを労って言った。
「これで敵軍は八方に備えねばなるまい。兵法にも謂うではないか。『前に備うれば則ち後寡く、後に備うれば則ち前寡く、備えざるところ無ければ則ち寡からざるところ無し』とな。ははは」
笑い収めて、
「しかしこれでは膠着するばかりだ。何としても碧水将に窮状を伝えねば」
オンヌクドが不安を隠せぬ様子で、
「今、どの辺に在るのでしょうか?」
努めて快活に答えて、
「さあな。判らぬことを考えてもしかたあるまい」
そこでゾルハンが進み出ると訴えて言うには、
「私に敵陣突破をお命じください。必ずオラル様を捜してまいります」
「ううむ」
ムジカは逡巡する。ゾルハンは語気を強めて、
「族長の言われたとおり、敵の備えは薄くなったはず。紅き隷民でもって一気に駆け抜けてご覧に入れます」
「そうだなあ……」
「まだ敵が集結を果たしていない今しかありません。ジョルチ、ウリャンハタの大軍が麓を埋め尽くしてからでは間に合いませぬ」
必死で言い募るのをじっと見ていたが、やがて断を下す。
「よし。だが少し待て。敵情を探ってからだ」
受けてオンヌクドが駆けだす。
そのころ、漸くジョルチの中軍が到着した。シャジの負傷を聞いてインジャは顔を曇らせると、
「聖医殿に薬を分けてもらおう」
早速早馬を送り出す。獬豸軍師サノウが言うには、
「とりあえず右王のなされようは万全でした。シャジ殿のことは悔やまれますが、それは超世傑が優れていたということです」
美髯公ハツチが長髯をしごきながら、
「そう言えば軍師、先に秘策があると言っていたが、まだ教えてくれぬのか」
「結論を急ぐ奴だな。あわてるな、あわてるな」
傍らからチルゲイが笑って言えば、ハツチはむっとしてひと睨み。サノウはそれにかまわず言うには、
「ことはおおむね予想したとおりに運んでおります。麓の道々は九尾狐の差配により固めておりますが、早晩敵騎がこれを突破せんと試みるでしょう」
セイネンが、
「碧水将軍と連絡を付けるためだな」
頷いて、
「超世傑は独りで戦うわけにはいきません。援軍を期待してクルチア・ダバアに籠もったのです。こちらが隙を見せれば、必ず一隊を外に出そうとするでしょう」
呑天虎コヤンサンが鼻を鳴らして笑うと、
「我が軍師は何でもお見通しだ。で、どうやってそれを阻止するんだ?」
にやりと笑って、
「阻止する必要などない」
「何だと?」
コヤンサンだけではなく、みな等しく驚く。
「軍師、我々にも解るように説明してくれ」
ナオルが促せば、
「では諸将、耳を」
一同頭を寄せれば、何ごとか囁く。次第にその面々に喜色が浮かび上がる。さらに一人ずつ細かく策を授ければ、みな小躍りして喜ぶ。
ナオル、トオリルらは自陣へ帰り、ドクト、オノチ、マルケ、コヤンサンらは兵を連れて何処かへと去る。
インジャは余の諸将とともに、タンヤン掲げる大将旗を押し立てて堂々と進軍する。兵衆はハーンを迎えてどっと歓呼の声を挙げる。それは峰々に轟きわたり、大地を揺らす。
(注1)【隘路】狭くて通行困難な道。




