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草原演義  作者: 秋田大介
巻八
431/785

第一〇八回 ③

アルチン不意に(おもむ)きて往不帰を傷し

サノウ籌策(ちゅうさく)(めぐ)らして紅隷民を逃す

 ナオルらは(ブルガ)が現れたという隘路(あいろ)(注1)を確かめる。テムルチが言うには、


「こうした岩山(カダ)では(アクタ)の通れぬ(モル)が随所にあります。ゆえに少数の歩卒をもって攪乱(かくらん)できるのです。もっと早く気づいていれば……」


「過ぎたことはよい。ここは九尾狐に(まか)せる。君はずっと山塞に在って険隘の(ガヂャル)での戦闘(カドクルドゥアン)に詳しい。(たの)みにしているぞ」


承知(ヂェー)


 九尾狐テムルチは、義君インジャの挙兵初期から従う将である。オロンテンゲル(アウラ)で癲叫子ドクトとともに降ってから、十年に(わた)って山塞を預かってきた。


 ゆえに華々しい勲功はないが、平原(タル・ノタグ)で活躍する黄金の僚友(アルタン・ネケル)の後背を常に安全たらしめてきた。ジョルチ随一の山岳戦の巧者と言ってよい。


 テムルチは布陣(バイダル)を改め、歩哨の数を増やし、狭隘な個所に歩兵を伏せた。ナオルやゴルタもそれに(なら)って布陣し直した。




 さて、首尾よく奇襲を成功させたアルチンとその一隊は、間道を(つた)って復命した。ムジカはこれを(ねぎら)って言った。


「これで敵軍は八方に備えねばなるまい。兵法にも謂うではないか。『前に備うれば(すなわ)ち後(すくな)く、後に備うれば則ち前寡く、備えざるところ無ければ則ち寡からざるところ無し』とな。ははは」


 笑い収めて、


「しかしこれでは膠着するばかりだ。何としても碧水将(フフ・オス)に窮状を伝えねば」


 オンヌクドが不安を隠せぬ様子で、


「今、どの辺に在るのでしょうか?」


 努めて快活に答えて、


「さあな。判らぬことを考えてもしかたあるまい」


 そこでゾルハンが進み出ると訴えて言うには、


「私に敵陣突破をお命じください。必ずオラル様を捜してまいります」


「ううむ」


 ムジカは逡巡する。ゾルハンは語気を強めて、


族長(ノヤン)の言われたとおり、敵の備えは薄くなったはず。紅き隷民(アル・ハラン)でもって一気に駆け抜けてご覧に入れます」


「そうだなあ……」


「まだ敵が集結を果たしていない今しかありません。ジョルチ、ウリャンハタの大軍が(ふもと)を埋め尽くしてからでは間に合いませぬ」


 必死で言い募るのをじっと見ていたが、やがて断を下す。


「よし。だが少し待て。敵情を探ってからだ」


 受けてオンヌクドが駆けだす。




 そのころ、(ようや)くジョルチの中軍(イェケ・ゴル)が到着した。シャジの負傷を聞いてインジャは(ヌル)を曇らせると、


聖医(ボグド・エムチ)殿に(エム)を分けてもらおう」


 早速早馬(グユクチ)を送り出す。獬豸(かいち)軍師サノウが言うには、


「とりあえず右王のなされようは万全でした。シャジ殿のことは悔やまれますが、それは超世傑が優れていたということです」


 美髯公(ゴア・サハル)ハツチが長髯をしごきながら、


「そう言えば軍師、先に秘策があると言っていたが、まだ教えてくれぬのか」


「結論を急ぐ奴だな。あわてるな、あわてるな」


 傍ら(デルゲ)からチルゲイが笑って言えば、ハツチはむっとしてひと睨み。サノウはそれにかまわず言うには、


「ことはおおむね予想したとおりに運んでおります。麓の道々は九尾狐の差配により固めておりますが、早晩敵騎がこれを突破せんと試みるでしょう」


 セイネンが、


「碧水将軍と連絡を付けるためだな」


 頷いて、


「超世傑は独りで戦う(アヤラクイ)わけにはいきません。援軍(トゥサ)を期待してクルチア・ダバアに籠もったのです。こちらが隙を見せれば、必ず一隊を外に出そうとするでしょう」


 呑天虎コヤンサンが(ハマル)を鳴らして笑うと、


「我が軍師は何でもお見通しだ。で、どうやってそれを阻止するんだ?」


 にやりと笑って、


「阻止する必要(ヘレグテイ)などない」


「何だと?」


 コヤンサンだけではなく、みな等しく驚く。


「軍師、我々にも解るように説明してくれ」


 ナオルが(うなが)せば、


「では諸将、(チフ)を」


 一同(テリウ)を寄せれば、何ごとか(ささや)く。次第にその面々に喜色が浮かび上がる。さらに一人ずつ細かく策を授ければ、みな小躍りして喜ぶ。


 ナオル、トオリルらは自陣へ帰り、ドクト、オノチ、マルケ、コヤンサンらは兵を連れて何処かへと去る。


 インジャは余の諸将とともに、タンヤン掲げる大将旗を押し立てて堂々と進軍する。兵衆はハーンを迎えてどっと歓呼の(ダウン)を挙げる。それは峰々(ボルダク)に轟きわたり、大地(エトゥゲン)を揺らす。

(注1)【隘路(あいろ)】狭くて通行困難な道。

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