第一〇八回 ②
アルチン不意に趨きて往不帰を傷し
サノウ籌策を運らして紅隷民を逃す
ゾルハンがやや不服そうに言った。
「奇襲なら我が紅き隷民に命じてくだされば……」
「いや、軽騎は平原で用いるものだ。険阻の地では歩卒のほうが自由に動ける。敵も驚くであろうよ」
あとは微笑むばかり。訝る諸将に付け加えて言うには、
「かの右王も、騎行できる大道は警戒しているだろうからな。ははは」
アルチンが三百の歩卒を率いて狙ったのは、ジョンシの宿将、往不帰シャジの陣であった。
シャジは主君の意を忠実に守って、しっかりと気を配っていたが、この奇襲にはまったく虚を衝かれた。馬の通れぬはずの岩場から突如襲撃されたのである。ものも言わず一斉に矢を射れば、シャジ軍はおおいにあわて乱れる。
「敵だぁ! 奇襲っ、奇襲!」
「火矢を放て!」
アルチンが叫ぶ。火はたちまち袍衣を焼き、旗幟を燃やす。シャジ軍はいまだにどこから射られているのかすら判然としない有様。悲鳴と怒号が辺りを満たす。シャジはおおいに驚き、混乱を収めんとて声を張り上げる。
「落ち着け! 火を消せ! 固まって陣を整えろ!」
そう言う彼自身、動揺は隠せない。アルチンは機を見て剣を抜き放つと、
「それ、かかれ!」
とて真っ先に飛び出す。手当たり次第に斬りつければ、勇気ある三百の手勢も、わっと喊声を挙げてあとに続く。
「馬だ、馬を狙え!」
指示に従って歩卒どもは軍馬の前脚、後脚を薙ぎ払う。あるいは首筋に斬りかかり、あるいは尻を鋭く突く。たちまち狭い山道は暴れる馬、倒れる馬で大騒ぎとなる。
「ええい、何をしておる。敵は少数ぞ!」
シャジが怒鳴ったが、兵卒はますます恐慌に陥る。シャジは憤然として馬を飛び降りると、抜刀して、
「どけ、どけ! 馬を降りて彼奴らを押し包め!」
叫びながら猛然と打ちかかる。まさしく「往かば帰らず」と称された猛将に恥じない勢いで一角に突っ込むと、車輪のごとく刀を振り回す。
「退け、退け!」
アルチンは即座に断を下して隘路に飛び込むと、沐猴(猿の意)のごとき敏捷さを発揮して、岩道を駈け登る。歩卒どももそれに続く。
「追え、追え!」
シャジは走りながら叫ぶ。自らもあとを追って岩に手を掛け、登っていく。
「あ、危ない!」
一人の兵が悲鳴を挙げる。彼は逃げる敵兵が振り向いて矢をつがえるのを見たのである。次の瞬間、矢は放たれてすっと空を割く。果たしてシャジは仰け反った。
「ああ、シャジ様!」
わらわらと兵が駈け寄る。
「うぐっ……。早く追え、逃がすな!」
見れば左肩の付け根に矢が深々と刺さっている。兵たちはあわてて主人の身体を支えんとしたが、
「この阿呆どもめ! わしのことはよい、追え、追え!」
しかしすでに敵は遠く離れ、岩々の陰に見え隠れしている。彼らは主命に背き、ともかくシャジを護って退いた。その間、シャジはわあわあ喚いていたが、顔は青ざめ、額には大粒の汗が滲み出る。
幕舎の中に身を横たえると、シャジは憤怒のあまり下唇をぎりぎりと噛んだあげく気絶してしまった。このことはすぐにナオルに知らされる。
「シャジが!?」
さしもの胆斗公も顔色を変える。すぐにトオリル、テムルチを連れて駆けつける。兵衆の要領を得ぬ説明を聞いてから、シャジを見舞う。やっと意識を恢復した宿将は涙を滂沱と流しつつ、
「まことに申し訳ありませぬ。どうか我が首を刎ねて士気を鼓舞してください」
「愚かなことを言うな!」
「いえ、わしはタムヤ攻略にてもお役に立てず(注1)、また今回も失態を……」
「もうよい、喋るな」
ナオルは制すると、顧みて言った。
「飛生鼠はどうした。あいつは少々医療の心得があったろう」
やがてジュゾウが駆けつけてくる。しばらく傷を診ていたが、眉を顰めて言うには、
「また深く刺さりましたなあ。とりあえず応急の処置はしますが、その後はよくお休みになっていただかないと」
「何の、これしきの傷……」
シャジは顔を歪めながら起き上がろうとしたが、たちまちナオルに叱られて、
「無理をするな! ここの指揮は九尾狐に代わってもらう。お前は傷を治せ」
歴戦の猛将は悄然として唇を噛む。そのままジュゾウに付き添われて運ばれていった。
(注1)【お役に立てず】小ジョンシの籠もるタムヤを攻めたとき、早期に負傷して山塞に帰ったこと。第五 四回②参照。