第一〇八回 ①
アルチン不意に趨きて往不帰を傷し
サノウ籌策を運らして紅隷民を逃す
さて超世傑ムジカは巧みに麒麟児シンらの追撃を逃れ、クルチア・ダバアに拠って布陣した。南征軍は再び兵を進めたが、途上矮狻猊タケチャクが戻ってきて告げて言うには、
「南方三百里を一万騎が北上中、旗は青地に白菱!」
それはイレキ氏を率いる碧水将軍オラル・タイハンの兵であった。急ぎ好漢たちは諮って、二手に分かれることにした。すなわち、ジョルチ軍はムジカを、ウリャンハタ軍はオラルを討つことになった。
義君インジャは、思うところあって奇人チルゲイを借り受けると、盟友の武運を祈って道を分かつ。
一万五千騎の精兵は、胆斗公ナオルを先鋒に一路クルチア・ダバアを目指す。インジャは馬を進めつつ、その信頼ある軍師サノウに問うた。
「超世傑の在るところは、実に険阻と聞く。軍師はいかなる策をもって臨む」
答えて言うには、
「それは現地に着いてからお話しします。まずはナオル殿に委せましょう」
百策花セイネンが口を開いて、
「いずれにせよ時日をかけるのはまずかろうかと存じます。ヤクマン部はまだ十万近い精鋭を有しております」
「超世傑は険阻の地に籠もって、時を稼がんとするだろう」
言えば、サノウが小さく笑って、
「ご心配には及びません。すでに胸中に策がございますれば」
大将旗を護持する長旛竿タンヤンが勢い込んで、
「おお、さすがは軍師だ! それでどのような……」
「まあ、それは現地に至ってからだ」
チルゲイが声を挙げて笑うと、
「相変わらずもったいぶるなあ。悪い癖だぞ」
「悪い? 君ほどではない」
あっさり退けて、あとは黙して語らない。
そのころ、先鋒はすでに敵陣を望むところに達していた。顧みて、
「さすがに超世傑が選んだだけのことはある。予想を上回る難所ではないか。どうする、トオリル?」
「すべての山道を封鎖しましょう。クルチア・ダバアは道狭く険しいゆえに、攻めがたいには違いありませんが、それは先方にとっても同じ。堅陣を組めば、敵騎も峠を下ることはできません」
「なるほど。ではそのようにして義兄上の到着を待とう」
「承知」
速やかに峠への入口を押さえる。斥候を放って登らせてみれば、敵の備えも万全の様子。
「ふうむ、ひたすら守って援軍を待つつもりだな」
「お待ちください、右王」
そう言ったのは九尾狐テムルチ。続けて言うには、
「予断はなりませぬ。超世傑は九変の術に長じた真の名将。守りに徹すると見せて、急に攻めてこないとも限りませぬ。兵法に謂うところの『その来たらざるを恃むことなく、吾のもって待つ有ることを恃む』構えが必要です」
ナオルは感心して、
「至言だ。ゴルタ、シャジにもよくよく言っておかねばなるまい」
そうして彼らは警戒を怠らずに、じっと中軍を待った。
一方、峠を中心に厚く布陣したムジカたちは、ナオル軍を望見して、
「ははあ、旗は麒麟児のものではないな」
「おそらくジョルチの右王ナオルの兵かと」
そう言ったのは、やや敵情に詳しい奔雷矩オンヌクド。
「ナオル……。胆斗公と称されている将だな」
「はい。諸将の信頼厚く、智勇兼ね備えた良将とか。才略のみならず、豪胆にして果断。まさにジョルチの支柱です」
ムジカは涼しげな顔で聞いていたが、やがて言うには、
「ふうむ。敵としては麒麟児より手強いやもしれぬ」
皁矮虎マクベンがまた逸り立って、
「まだ敵は布陣を了えておりませぬ。一気に坂を下って突撃すれば……」
「ははは、お前は気が短い。で、突き破ったあとどうする? 後方にはまだ三万もの兵が控えているぞ。自ら地の利を棄てるほど優れた策とは言えぬな」
軽くあしらったが、ふと思索顔になって、
「いや、待て。少し突いておくか」
ムジカはアルチンを呼ぶと言うには、
「笑小鬼、歩卒を率いてちょっと脅かしてこい」
不思議そうな顔で答えて、
「歩卒ですか?」
「そうだ。まともに打ち合ってはならぬ。耳を貸せ」
ムジカは何ごとか囁く。アルチンは瞠目して、嬉々として去る。