第一〇七回 ②
ムジカ群舞鮮やかに諸賢を欺いて走り
マクベン伏姦密やかに兵鋒を制して起つ
ジョナン軍はついにその大部が彼方に退去して、残るは紅き隷民ばかり。かの千騎は合図に応じて縦列を成したかと思うと、次の合図で先頭から順にさっと右手に折れる。
続々とウリャンハタ軍の前を丁字型に横切っていき、また向きを転じてこれに背を向ける。一騎として遅れるものもなく、さながら一個の生物のごとく連なって遠ざかっていく。
ウリャンハタの将兵は大喜びで喝采を送る。かつてこれほど巧みな兵の運用を目にしたことがない。漸く遠くなる敵影を眺めながら、初めに我に返ったのは花貌豹サチである。はっとして言うには、
「超世傑め、堂々と離脱するのか」
蒼鷹娘ササカが、顔を上げて意外そうに、
「えっ、何?」
サチは珍しく苛立って、
「ムジカは退却したんだ! 追わないと……」
このひと言に周囲はおおいにざわめく。
「麒麟児および中軍に伝令! ナユテはまだ戻らぬか! 全軍、追撃の用意を!」
サチですらこのあわてぶり、余のものの取り乱しようといえばその比ではない。そのころ、衛天王カントゥカのもとに獬豸軍師サノウが現れて言うには、
「何をしておいでです。敵の奇態は虚勢に過ぎません。一時に攻めかかれば大勝は疑うべくもありません。早く総攻撃の命令を……」
そこへ娃白貂クミフがあわただしく駆け込んで、
「一大事です! ムジカ軍が、ムジカ軍が……」
「どうした?」
潤治卿ヒラトの鋭い声が飛ぶ。クミフはごくりと唾を呑み込んで言った。
「……退却したわ」
「何だと!?」
一同は異口同音に叫んで思わず腰を浮かす。サノウだけはさもありなんとばかりに小さく舌打ちする。いや、もう一人、奇人チルゲイは不謹慎にもにやにやと笑って、青ざめた僚友たちを眺めている。
さらにそこへタケチャクが汗だくで戻る。同じく言うには、
「ムジカ軍が退却しつつあるぞ!」
ヒラトは眉を吊り上げて、
「麒麟児や花貌豹は何をしていたんだ!」
クミフが肩を竦めて見たままを話せば、
「見逃した麒麟児も麒麟児だが、敵前でそれを為した超世傑も超世傑だ」
おおいに呆れる。カントゥカは狼狽える諸将を一喝して鎮めると、神道子ナユテと知世郎タクカに命じて、
「急ぎ返って追撃に移れ!」
両名が退出すると、サノウもまた無言で去る。陣中は俄かに忙しくなる。チルゲイ独りは喜色を浮かべて言った。
「ははあ、ムジカ軍の演舞、拝見したかったものだ」
かくしてわけのわからぬうちにおおいに時を稼いだムジカたちは、ただひたすら疾駆した。先駆けるのは奔雷矩オンヌクド。すでにホンゴル・エゲムを去ること遥か、しかし安心はできぬ。
約会の地は百里を隔てたクルチア・ダバア(鋭き峠の意)。オンヌクドは馬を潰さぬよう意を用いて全軍を誘導する。峠に至ったら、道を封鎖して陣を固めるのが彼の任務である。
あとには皁矮虎マクベン、笑小鬼アルチンも続いているはずである。そして殿軍に超世傑ムジカと紅き隷民である。
考えると族長の身が案じられて胸が痛む。駆けながらも、己が残るべきではなかったかと後悔する。しかし紅き隷民でなければ敵騎の追撃を躱すことなどできないし、それを巧みに操るのはムジカとゾルハンしかいないのである。だが、
「超世傑を討ちとられたら意味がないではないか」
そう思えてならない。オンヌクドは邪念を払って、前だけを見ることにした。そのムジカはといえば、盛んに後方を気にしながら傍らのゾルハンに言うには、
「まだ敵は動いていないな」
「はっ。しかしまもなく気づくでしょう。麒麟児の迅速をもってすれば、いずれどこかで一戦せねばなりますまい」
「皁矮虎に策を与えてある。案ずるな」
そう言ってさらに馬を急かす。
ウリャンハタ軍はやっと追撃に移る。シン・セクは七星嘆を掲げて、
「このまま超世傑を逃しては恥だぞ。必ずこれを捕捉殲滅せん!」
兵衆はわっと喊声を挙げて応じる。金鼓とともに五千騎は駆けだす。花貌豹サチもこれに遅れじと出動した。両翼のジョルチ軍もそれぞれ前進を始める。