第一〇六回 ④
シン卒かに軽騎を迎えて軍形を攪し
ムジカ敢えて奇計を装い知慮を昏くす
ムジカはゾルハンの目を見ながら言った。
「お前は私とともに殿軍。よいか」
「承知。……ムジカ様も残られるのですか?」
「無謀と知りつつ将兵を動かすのだ。私が真っ先に逃げるわけにはいくまい。お前も殿軍を嫌がるようなら別の命を与えるつもりだった」
「そんな! 私はムジカ様に拾っていただいた身、必ずお護りいたします」
こうして瞬く間に手はずが整えられる。
一方、いよいよ総攻撃に移らんとしていた麒麟児らは、敵軍の異様な動きを目にすることになる。
「おい、知世郎。あれを見ろ!」
「見ている」
「何をしていると思う?」
「……食事だな」
言葉のとおり、敵の一隊は馬を降りて車座になり、何やら食している。呆れて互いにものも言えずにいると、急火箭ヨツチが駆けてきて、
「おい、奴らの動きがおかしいぞ!」
「わかっている、騒ぐな。……知世郎、どう思う?」
「……どう、と言われてもな」
さらにムジカ軍は次々と理解できない行動に出る。一隊はやはり下馬して草の上に寝転がる。一隊は戦列を離れて馬に草を食ませる。
百人ほどの弓兵が出てきたかと思うと、ぱらぱらと矢を放って帰る。別の百人は俄かに後方に駆けてまた戻る。
あるところでは火を熾して、旗やら袍衣やらを燃やしはじめる。あるところでは卒かに歓声が挙がり、歌が流れはじめる。およそ先の堅陣とは似ても似つかぬものに様変わり。
「あれは、挑発しているのか?」
シンの呟きに答えらえるものもなかったが、ヨツチが独り激怒して、
「侮るにもほどがある! 行って蹴散らしてくれよう」
「待て、待て!」
タクカがあわててこれを止める。
「神道子はムジカに詳しい。尋ねてくるゆえ、軽々しく動くな」
そう言って一騎、後方のサチの陣へ駆ける。だが驚いていたのは、ナユテやサチも同じだった。タクカを迎えて、
「我々にも解らぬ」
サチが言えば、ナユテも、
「ムジカは卓越した将軍だが、奇策を弄するものではない。それが殊更にあのようなことをして見せるのは、深い理由があるのだろう。堅く陣を守って隙を見せてはならぬ。私は中軍に出向いて聖医殿の考えを聞いてくる」
タクカも頷いて、
「私も行こう。ともかくじっとしていることだ」
言い置いて両騎は駆け去る。サチはそれを見送るとまた前方を見据えて、ササカに語って言うには、
「一見、隙だらけのようだが実はそうではないぞ。中軍は張り詰めた弓のごとく何かを待っているように見える」
「たしかに。それにときどき後方へ去っていく騎兵があるようだけど……」
それには答えず、
「ナユテはムジカに奇策はないと言ったが、わからぬぞ。麒麟児に伝令。少し退いて守りを固める」
こうして困惑したウリャンハタの前軍が徐々に後退するのを望み見て、思わずマクベンは快哉を叫ぶ。が、すぐに頬を引き締めて呟く。
「いや、まだ敵の頭を混乱させただけだ。まことに難しいのは、ここから兵を退けることだ」
ムジカも一旦ほっと胸を撫で下ろす。もし敵が好機とばかりに攻め寄せれば、抗うこともできなかっただろう。
陣形を崩したのは誘うためでも何でもなく、ただただ敵を惑乱せしめるのが狙いだった。だから用兵の常道にあるまじきことばかりを選んで見せつけたのである。オンヌクドは信じられぬといった表情で慨嘆して、
「ああ、『偽言は大なるに若くは莫し』と謂うが真だ」
そこで次の行動へと移る。そもそもこれは「無策之策」に過ぎない。いつまでも欺き通せるものではない。この機を失ってはならぬ。
さてナユテとタクカは馬を飛ばして中軍に至ると、敵軍の不可解な行動を報せて判断を請う。アサンやボッチギンも目を円くして、一様に首を傾げる。
まさしく「セチェンは欺かれまいとしてまず疑う」の言葉どおり、それぞれに真意を測って意見を述べ合う。一度はないとされた伏勢のことまで再考されて、あわててタケチャクが斥候を率いて駆け去る。
彼らの仰ぐ大カン、カントゥカも豪勇ではあるが、その実は慎重な武人にて眉間に皺を寄せて考え込む。
集まりたる好漢たちは知恵もあり、かつムジカの兵略を警戒している。まさか兵事に通暁するムジカが、ゆえなく愚策を為すとは思わない。
まさしく俚諺に謂うところの「三個の巧みな騎手の一頭を御すは、一個の拙い騎手の一頭を御すに如かず」、あるいは「騎手多くして馬駆けず」といった有様。
議論百出してなお結論が出ない。果たして、ムジカはこのまま戦場を離脱することができるだろうか。それは次回で。