第一〇六回 ③
シン卒かに軽騎を迎えて軍形を攪し
ムジカ敢えて奇計を装い知慮を昏くす
陣を立て直そうとしていたネサク軍は、たちまち崩されて方々で応戦に入る。シン・セクはおおいに怒って七星嘆を把むと、
「敵は寡勢だ! あわてるな、攪乱に過ぎぬ!」
叫びながら黒亜騏の腹を蹴る。黒き駿馬は一陣の風となって前線に躍り出る。整えつつあった陣形はすでに分断され、ムジカの跳梁を許している。
「侮りおって!」
麒麟児の雄姿を見て、兵衆も漸く正気に返る。それを見るやさっとムジカの手が挙がり、千騎は一斉に退却に転じる。
「逃がすな! 麒麟児を舐めるなよ!」
躍起になって追ったが、どうしたわけか追いつくことができない。
「なぜだ? そんなまさか……」
焦って追っていけば、敵陣から矢の雨が降り注ぐ。
「近づきすぎたか!」
臍を噛むうちにムジカは陣中へ逃げ込んでしまった。やむなく馬首を廻らせたが、内心は悔しさに煮えくりかえっていた。
「それにしても、あの軽騎……。この俺の兵が追いつけぬとはいったい……」
実はこの軽騎は、神風将軍アステルノの兵に倣って編成されたもので、ジョナン軍の中核を成している。さすがに全軍をそうするには至らなかったが、これを率いるゾルハン自ら「紅き隷民」と名付けた精鋭である。
この奇異な名には理由がある。ゾルハンは何と赫彗星ソラと同じジョシ氏の出自であった。寄る辺を失った赤流星のうち、一部のものはムジカに投じた。
すなわち「天罪すら逃れうるに三あり。一に赫彗星、二に超世傑、三に紅火将軍」というわけである。
ムジカは彼らを受け容れると、早速命じて軽騎部隊を作らせた。軍装を紅一色で統一することを許されたゾルハンは、自らの境遇を忘れぬよう「隷民」と自称したのである。
さてムジカは将兵の歓呼に迎えられて笑顔を見せた。しかしすぐに険しい顔に戻ると、諸将を呼んで事後を諮った。言うには、
「撤退の方策を立てねばならぬ」
マクベンは不服そうに、
「今は我が軍が押しておりますぞ。何もそうあわてなくても」
溜息でこれに応えて、
「だから今、退くのだ。ジョルチの軍勢が両翼に至らんとしている。包囲の輪が完成すれば、我々は瞬く間に敗れるだろう。軍を保つには、今こそ早急に退却せねばならぬ。損害を最小限に止めつつ」
アルチンが言った。
「ただ逃げてはまずい、と?」
ムジカは強く頷く。そして、
「とりあえず退いて、もっと有利な地を占める。いずれ逃げきれる相手ではない。ならば兵勢の衰えぬうちに動きたい」
「とはいえ眼前の麒麟児を躱す策がおありですか?」
オンヌクドの問いにううむと唸ると、眉を顰めて考えながら言うには、
「敵は我に数倍する大軍。いかに訓練された優れた軍であろうと、その運用においては俊敏というわけにはいかぬ。その僅かな隙を衝ければと思うのだが……」
諸将は黙って続きを待つ。
「さらに敵の動きを扼する要素がもうひとつある。ジョルチ、ウリャンハタには、智略に長じたものが殊の外多い。セチェンというものは、本質的に欺かれまい、騙されまいとする性向がある。何か不可解なことがあれば、まず疑い、意味を探る」
ここでムジカは黙り込んでしまった。しばらく待っていたが、ついに堪りかねてマクベンが言うには、
「それで、どうすればよいのです?」
苦悩の表情を浮かべていたが、やがて言った。
「これから私が言わんとしているのは良策でも名案でもない。知恵のないものが苦し紛れに放つ奇手に過ぎぬ。うまくいけば僥倖以外の何ものでもなく、外せば軍を毀ち、果ては草原中の笑いものとなろう」
俄かにオンヌクドが笑いだして、
「何をおっしゃるかと思えば。もとより我々の命は預けてあります。どんな道理に合わぬ命令でも嬉々として行うでしょう」
マクベンも興奮して頷くと、思わず昔日の口調に戻って、
「そうだ、細かいことなど気にせず命じればいいんだ!」
アルチンも続いて、
「どうせ俺たちに奇人殿や神道子のような知恵はないんです。ここは族長の奇手とやらに賭けてみましょう」
ムジカは諸将の顔を順に見回すと、
「よし、では私の奇手というのを話そう。近く寄れ」
応じて進み出た一同に何ごとか囁けば、みなの顔に等しく驚愕の色が浮かぶ。話し終わったムジカは自信がなさそうに、
「どうだ、これで神道子らを欺けようか」
答えたのはオンヌクド。
「こちらの意図を覚られたら、全滅は必至ですな。しかし……」
「しかし?」
「おもしろいと思います。先に族長が言われたように『セチェンは欺かれまいとしてまず疑う』ものです」
余のものも同意したので、ムジカは喜んでより細かく策を授ける。指示を受けた将は次々と場を離れて、最後にゾルハン独りが残る。