第一〇六回 ②
シン卒かに軽騎を迎えて軍形を攪し
ムジカ敢えて奇計を装い知慮を昏くす
後方からそれを見た花貌豹サチは、ほうと嘆じて、
「麒麟児の速攻を一応は喰い止めたか……」
副将の蒼鷹娘ササカが苛立って、
「早く加勢しなければ。麒麟児は速攻にもっとも力を発揮する将、今やその足は堅陣に止められたわ!」
サチは制して、
「まだ早い」
ひと言告げて、あとは黙り込む。
「でも……」
ササカは言いかけて口を噤む。サチがそう言うからには、何を告げても意味がないことを知っていたからである。
サチの軍も次第に前進して、いつでも参戦できる態勢を整える。さらに背後にカントゥカ率いる一万二千の中軍が現れる。それを知って、
「来たか」
呟いてまたサチは黙してしまった。傍らのササカは気が気ではない。そのころ激戦を続けるシン・セクは、漸く容易に抜けぬことを悟って、
「一旦、退け!」
そう言って馬首を返す。と見るや、あっと言う間にネサク、ダマンの騎兵は身を翻す。さながら潮の引くがごとき鮮やかな撤退に、ジョナン軍は追撃の機を見出だせない。
忿りに駆られてマクベンが飛び出そうとしたが、すかさず銅鑼が響いてそれを制する。ぐっと唇を噛んで再び陣を整えると次の敵襲に備える。
サチはぱっと顔を輝かせて、
「見たか、ササカ! 超世傑は名将だぞ!」
興奮気味に言う。ササかは瞠目して内心思うに、
「あの花貌豹がこんなに嬉しそうに笑っている……。興奮しているところなんて初めて見たわ」
それにはかまわず、なおも続けて、
「麒麟児が兵を返すときに隙が生じると思ったのだが。あれほどの将は草原中を探してもそうそういるものではない。もしムジカが三万、いや、二万の兵を擁していたらと思うとぞっとする」
「そのとおりだ」
いつにないサチの饒舌をひとつの声が遮った。見れば神道子ナユテ。彼はサチに優しい眼差しを向けたが、一瞬にして険しい表情に戻ると、
「大カンのもとから帰ってきた。麒麟児が苦戦しているようだな」
サチが頷いて、
「得意の突撃を阻止されて少し退いたところだ」
「すでに左右の丘の向こうにジョルチ軍が到達している。包囲の形を成すまでもう少しかかる。シンとサチは、ともに攻撃を加えて敵を足留めせよとの命令だ」
「はい。ならば麒麟児に伝令を」
娃白貂クミフが応じて駆け去る。サチは顧みて、夫たるナユテに言うには、
「超世傑はまことに名将だな」
「私は以前、ムジカの遠征に帯同(注1)したことがある。大軍をまるで手足のように動かし、機を見るに聡く、ひとたび攻勢に転じれば猛火のように攻める。これを正面から破るのは至難の業だろう」
ササカはその美貌に怒気を浮かべて、
「至難の業などと悠長なことを言っているときじゃないでしょう。まだ南征は始まったばかりよ」
ナユテはこれを窘めて、
「無論そうだ。今、矮狻猊と飛生鼠が周囲を隈なく探ってきたが、やはり伏兵はないそうだ。超世傑は完全に四頭豹に嵌められたと看て間違いない」
そう言う顔は複雑な色を帯びる。
「ジョルチと兵を併せて攻め立てれば、いかなムジカといえども支えることは能うまい。中軍に狼煙が揚がったら総攻撃だ。それまでは決して無理はしないようにと、これは聖医殿の忠告だ」
ふと前方から、わあわあと騒々しい声がする。はっとして見れば、第一軍の前で小競り合いが始まっている。
「あれは……?」
ナユテらは思わず言葉を失う。やがてサチが、
「まさか敵が撃って出たのか? よもや向こうからしかけることはあるまいと踏んでいたのに」
シンもそう考えて警戒を怠っていたのである。だがこれは彼を責めるわけにはいかない。誰も劣勢のムジカが堅陣を離れて攻めてくるとは思いも寄らなかった。
さらに驚くべきことにその一隊を率いているのは超世傑ムジカ本人であった。陣を出たのは軽騎千騎。それが風のごとく一直線に突っ込んできたのである。
(注1)【遠征に帯同】ムジカが獅子ギィと戦ったときのこと。第三 六回④参照。