第一〇六回 ①
シン卒かに軽騎を迎えて軍形を攪し
ムジカ敢えて奇計を装い知慮を昏くす
さて、ついに南征の軍を興したジョルチ、ウリャンハタの好漢たちはアラクチワド・トグムにて約会した。そこでジョナン氏の超世傑ムジカが僅か一万騎をもってホンゴル・エゲムに布陣していることを知り、おおいに惑った。
というのも、連合軍は併せて四万騎に近い大軍。四頭豹の奸智を警戒している彼らが、謀計を疑うのは当然であった。軍議は紛糾するかに見えたが、呑天虎コヤンサンの暴言にも近い言葉から一挙に解決して、ともかく進軍することになった。
先駆けるは西原の誇る精鋭ネサク軍を中核とする五千騎。将はもちろん麒麟児シン・セク。手には天下の名剣「七星嘆」、騎るは漆黒の名馬「黒亜騏」。従えるは知世郎タクカと急火箭ヨツチ。勇躍して馬を駆る。
一方、迎撃するムジカは、敵軍の実態を知ってあわてふためいた。四頭豹より聞いたのは二万騎とのことだったが、それに倍する軍勢が迫っていたのである。
傍らに叱咤する打虎娘タゴサの姿もなく、一旦はみなが恐慌に陥りかけた。しかしそこは超世傑と称されるムジカである。たちまち意を決すると、布陣を更えて敵を待つ。そこへ斥候が戻って、
「敵軍五千騎、現れました!」
思わず呟いて、
「疾い……」
まさに神風将軍アステルノに勝るとも劣らない迅速。それを見ただけで容易ならざる敵であることが判る。
だが、シン・セクのほうもムジカの陣を望見して感嘆していた。
「さすがは超世傑。奇人の言葉は虚言ではなかった」
その間にもみるみる両軍の間は縮まっていく。シンは手にした剣をテンゲリに向けて高々と掲げると、
「ものども、西原の戦を見せてやれ!」
ネサク、ダマンの兵衆は喊声をもってこれに応えると、得物を振り上げて突撃に移る。さらに早足となり、裂帛の気合い、天地を揺るがす。
ジョナン軍も、これに気圧されることなく冷静を保つ。浮足立つ兵はない。それもムジカを信頼しているからである。
第一陣を率いる奔雷矩オンヌクドは、なかなか攻撃の命が下らないので、ちらりと後方を顧みた。中軍はしんとして何の動きもない。すでに敵騎の表情まで見分けられるほどである。
ムジカは馬上に傲然と胸を反らせて近づく敵を眺めている。その目は、憤怒も動揺もなく、湖面のごとく静かである。
平生は動じやすく、気の弱そうな風をしてタゴサに叱咤されているが、実のところムジカは部族の誰よりも胆力に卓れ、雄心に富んでいた。だからこそいざとなればみなこれを恃み、また超世傑なる渾名を奉っているのである。
「まだまだ。引きつけよ」
周囲の不安げな視線に応えるかのごとく呟いた。姿勢はいささかも変えず、じっと前方を見つめたままである。忠順な彼の兵衆は決して飛び出すことなく、ひたすら堪えて命を待つ。
やがて機は至る。ムジカの右手がすっと挙がる。今までの静寂を破るには十分すぎる高い声が轟きわたる。
「斉射!」
瞬時に金鼓が打ち鳴らされ、迫るネサク軍を驚かす。一斉に弓弦を弾く音がして、雨のごとく矢が放たれる。突っ込んできた騎兵は、次々にもんどりうって落馬する。戦端が開かれたあとは、オンヌクドの指揮で二の矢、三の矢がこれを襲う。
「矢が尽きるまで射よ!」
鋭い声が飛ぶ。
しかし麒麟児もさるもの、これしきで挫ける凡将ではない。飛来する矢を左右に払いつつ、手綱を緩める様子もない。それに勇を得て、選び抜かれた精鋭であるネサクの猛者どもは、怒声を挙げてあとに続く。
「そんな矢が俺に中たるか!」
シン・セクはまっしぐらに敵陣を指して黒亜騏を駆る。
それを見て再び金鼓、応じて第二陣がどっと繰り出す。槍の壁を作って第一陣と交替する。その動きには僅かの乱れもなく、さながら一人の手足を動かすがごとく陣形が変わる。皁矮虎マクベンが戦意も顕に躍り出ると、
「押せ、押せ! 押し返せ!」
一方の麒麟児シンも、
「続け、ものども!」
叫んで七星嘆を振り翳す。マクベンは兵を密集させて正面から押し返す心算、シン・セクは錐のごとく敵陣に突き入らんとする。
かくして両軍はついにぶつかった。繰り出される槍を薙ぎ払って麒麟児は奮戦する。皁矮虎も負けじと敵騎を屠り去る。人馬入り乱れて戦い合う。