第一〇五回 ②
ドルベン神風将を召して奇計に任じ
インジャ呑天虎を嘉して暗鬼を避く
入ってきたアステルノは露骨に不快を表している。だが丞相に対する礼は疎かにしない。四頭豹はますます喜んで、
「面を上げられよ。貴公に会うのを楽しみにしておりましたぞ」
応じて頭を起こすと、刺すような視線で睨みつける。が、一向に動じる様子もなく続けて、
「将軍も聞いたでしょう。小僧どもが我が版図を侵そうとしています。すでにムジカに迎撃を命じましたが、将軍にもひとはたらきしてもらいたい。まことに将軍の盛名は轟いており、恃みとするは貴公をおいてほかにありません」
アステルノは視線は外さずに、短く言うには、
「ご用件は?」
「ははは、良い眼だ。凡夫であれば見ただけで卒倒してしまうでしょうな」
アステルノはいらいらして語気を強める。
「ご用件を、疾く!」
「ふむ、まあ、よいでしょう。将軍率いる東軍は、ヤクマンでも随一の迅速を誇っているとか。そこで貴公にしか為しえぬ策を授けます。ジョルチ軍はそのすべての力を南征に投じています。よろしいですか? すべてです」
そこでじっと反応を窺ったが、アステルノの表情は硬く冷たいままである。
「……ジョルチの人衆および家畜は、大半がオロンテンゲル山にあるという山塞へ移動しました。が、それを守る兵は僅か数千騎です」
「…………」
「貴公は、全兵力をもって長躯、その山塞を襲ってください」
これには驚愕して、初めて表情が変わる。四頭豹は満足して、
「よいですか、すぐに向かってください。オロンテンゲル山は二千里の彼方ですが、神風将軍にとってはたいした道程でもないでしょう」
「そ、それは……」
「心配は無用です。セント氏の人衆は我が白軍がお守りいたします」
「いや、そうではなく……」
狼狽えるのを楽しむように、
「家畜などを略奪する必要はありません。あくまで速やかに山塞を落としてください」
なおも何か言おうとするアステルノにかまわず、
「誰か、神風将軍がお帰りになる! 丁重にお送りいたせ」
言えば側使いがぞろぞろやってくる。もはや四頭豹は顧みることもなく奥に消える。気づいたときにはすでに姿はなかった。やむなく帰途に就いたアステルノは、道々考えるに、
「謀られたか。策戦としてはたしかに奇抜で巧妙だが、敵地を千里も踏破する身になってみろ。四頭豹はああ言ったが、もし敵に備えがあって退路を断たれたら、完全に孤立するぞ。よしんば山塞に辿り着けても、落とすのに時日を費やせばたちまちジョルチ軍は舞い戻ってこよう。また首尾よく山塞を落としても、どうやって南原に帰ればよいのだ。あの奸物め!」
さらに続けて、
「それにジョルチ、ウリャンハタの連合ともなれば大軍ではないか。ムジカの擁する兵は一万、到底敵しえぬ。これはまったくしてやられたぞ。俺が二千里もの彼方へ遣られるのも、奸計に気づいて手を組まれぬよう先手を打ったのだ。しかも人衆を手許に置いて人質にしようとは……。いったいどうしたらいいんだ!」
暗澹たる思いを抱えてアイルに戻ると、諸将を集めて軍議を開いた。思うところを話して聞かせたが、誰も良策は浮かばず首を捻るばかり。セント氏にも知略に優れた将は皆無であった。一人が恐る恐る進言して、
「ひとまず丞相の命に従って出兵してはどうでしょう。まことにオロンテンゲルまで行くかどうかはあとで考えることにして……」
「ふざけるな! お前はセント氏を滅ぼす気か」
激昂して叫んではみたものの、アステルノとてほかに良い案があるわけでもない。結局、不本意ながら北を指して出陣するしかなかった。
戦に行かぬ人衆は、四頭豹は中央へと言ったが、後難を慮ってカオロン河沿いに南へ退避させた。言うには、
「もしものときには迷わずカオロンを渡ってホアルンに投じろ。決して四頭豹に屈してはいかん」
さらに二千騎を割いて残していくことにした。すでにアステルノはオロンテンゲルまで遠征する気はなかった。中途で策を読まれて進撃を阻まれたとでも言うつもりであった。
かくしてアステルノは軽騎八千を率いて北上した。版図を抜けるまではその名のとおり迅速機敏に、しかしそのあとは道を急がず、むしろゆっくりと進む。
奇しくも彼らの先には、霹靂狼トシ・チノ率いるジョルチの第二軍が南下しつつあったが、それはまだ双方知らぬことである。
そうして四頭豹は万全の手はずを整えてから、己の白軍三万騎をうち揃えた。彼は白軍を預かってから徐々に部将の顔ぶれを改め、今では三十人の千人長以下、十人長に至るまで、長きに亘って手懐けた従順なもので固めていた。
誤解してはならないのは、四頭豹は好漢たちからは奸智のものとして忌み嫌われていたが、決して悪政を為すものではない。むしろ彼が丞相に就任してから、国力は日増しに高まっていた。
軍においても、麾下の兵卒から見れば理想の将と言ってよかった。それこそ四頭豹の才幹であり、それゆえに好漢たちがいかにこれを疑い、恐れても決して除くことはできなかったのである。




