第一〇四回 ③
軍陣明らかにしてアサン牙狼将を諭し
戦雲急にしてドルベン超世傑を動かす
四頭豹はそうした周囲の不安、疑念を知ってか知らでか何も語らなかった。ただ七卿の一人、大スイシを密かに召して、
「卿に嘱みたいことがあります。引き受けていただけませんか」
「何なりと」
かつて権勢を誇った七卿も、今や四頭豹の意を迎えるばかり。
「近く戦があります。我が軍が敵と遭遇したら、急ぎ旅立っていただきたい」
おおいに驚くと、
「戦、ですか? いったいどこと……」
「ふうむ、よろしい。卿にだけ特にお教えいたしましょう。他言は無用ですぞ」
震えながら頷けば、にたりと笑みを浮かべて、
「小僧どもが手を繋いで攻めてくるのですよ。北と西から、ね」
「まさか……」
「ははは。ジョルチとウリャンハタが、ヤクマンと戦をするそうです」
「そんな、ではすぐにもハーンに……」
「何を狼狽えているのです。大スイシともあろう方が」
老臣の反応を楽しむように一瞥をくれると、卒かに声を低くして、
「戦のほうは心配要りません。それで卿の任務は……」
耳を寄せた大スイシは初め驚愕し、次いで険しい顔になる。やがて、
「承知。丞相の遠謀にはいつも驚かされます」
「ほう、それは揶揄っているのですか? まあ、いいでしょう。嘱みましたよ。くれぐれも内密に」
不敵に笑いながらこれを退かせる。何を命じたかはいずれ判ること。
ついに出陣の秋は来た。胆斗公ナオルを先頭に第一軍が出立する。左右には百万元帥トオリルと往不帰シャジの姿。
ジョルチン・ハーンの中軍は、その翌日アイルを離れる。長旛竿タンヤンの掲げる大将旗が堂々と揚がれば、どっと歓声が巻き起こる。インジャの右手が高々と挙げられて、
「出陣!」
応じて五千騎は粛々と進軍を開始した。栄誉ある先駆けは、カミタ氏族長癲叫子ドクト。傍らには無論、雷霆子オノチがある。
約会の地は「アラクチワド・トグム(まだらの盆地の意)」と呼ばれる低地で、インジャのオルドから南西八百里彼方にある。
ウリャンハタの中軍もメンドゥ河を押し渡る。もとより先鋒の麒麟児はすでに先行して、かの地に至らんとしているはずである。ときを同じくして一角虎の五千騎は、イシから東岸に出る。
一方、ベルダイ氏の霹靂狼の第二軍はアラクチワド・トグムへは向かわず南東へ、すなわちマシゲルの故地を目指す。
いよいよ大勢は動きはじめた。ジョルチ軍南下の報は、すぐに四頭豹の知るところとなった。なぜか常にないほどの上機嫌で、唇の端を吊り上げて笑うと、
「小僧どもが動いたか。すぐに早馬を!」
珍しく興奮した様子で命じる。やがて込み上げる笑いを抑えきれず、憚ることなき哄笑に身を委ねる。驚いてやってきた小スイシが、
「ど、どうかなさいましたか?」
問えば、手を振って、
「ははは、何でもありません。ただ張っていた網に、さまざまな雑魚が一挙に罹ったのです。これが笑わずにおれましょうや」
「…………?」
小スイシにはわけがわからない。怪訝な表情を浮かべる彼をもうすでにいないものであるかのごとく、四頭豹は思索に耽る。やがて振り返りもせずその場をあとにしてオルドへと向かう。小スイシはあわててこれを追う。
トオレベ・ウルチは四頭豹を丞相に任命してから、軍民両政のことごとくをこれに託して、己はもっぱらジャンクイをかわいがって日を過ごしていた。報告はすべて丞相府へ送られ、世事からは遠ざかるばかりであった。
そこにはかつて草原を震撼させた英王の面影はなく、ただ一人の老人があるだけであった。四頭豹は久々にこれに見えて、恭しく拝礼した。膝の上にジャンクイを乗せたトオレベ・ウルチは、だらしなく目尻を下げながら、
「おお、丞相。我が剣よ。どうかしたのか?」
「辺境にて騒ぎが起こったので、ご判断を仰ぎに参りました」
そう述べれば、僅かに眉を顰めて、
「丞相の好きにすればよい。八旗軍があるではないか」
「はい。しかし念のためお知らせいたそうかと。実は、ジョルチの小僧が我が辺境を荒らさんとしております」
「北にはムジカがいるだろう。これに追い払わせよ。ジョルチはいかほどの兵を出してきたのだ」
「たいした数ではありませぬ。たかだか数千騎ほどかと」
俄かに険しい表情になると言うには、
「ならばわざわざ報告せんでもよい。ムジカを遣れ。足りぬようならアステルノがいるだろう。よいか、丞相。わしは貴公に政事を委せたのだ。少々のことなら己で処理いたせ」
「はい。そのようにいたします」
さらに居合わせた群臣に告げて、
「お前らもくだらぬことをいちいちわしに言う必要はない。すべて丞相に従え。その命令は、我が勅命に等しいと心得よ」
四頭豹は辞を卑くして退出したが、内心では英王を嘲って大笑い。
「これはテンゲリが、目障りな連中を一掃するべく私に与えた好機だ」