第一〇四回 ②
軍陣明らかにしてアサン牙狼将を諭し
戦雲急にしてドルベン超世傑を動かす
潤治卿ヒラトが編成を告げ終えると、場は不思議な沈黙が支配した。みな心中に闘志を漲らせるあまり声を出すのも忘れていたのである。
そんな中、聖医アサンがそっと口を開くと、末席近くに控えていたカムカに言った。
「牙狼将軍、いつも後方の任務ばかりでおもしろくないでしょうが、実は将軍の役割こそもっとも重要です。後背の安全が確保されてこそ遠征軍は力を尽くせるというもの。将兵は故郷を守る将軍に常に感謝しておりますぞ」
カムカは、はっと顔を伏せて、
「いえ、私など……」
アサンはゆっくりと確かめるような口調で続けて、
「ただひとつだけ申し上げておきます。常に己だけでことを解決しようとしてはいけません。仮に変事が出来したとして、敵わぬとみたらすぐにイシまで退き、遠慮せずに早馬を送ってください。決して命を粗末にせぬように」
カムカはおおいに感激して目を潤ませると、幾度も拝謝した。
軍議が終わるとカムカはすぐに北に帰った。また麒麟児シンは、他軍に先駆けてメンドゥ河を渡るので、急いで軍営に戻った。
出陣に向けてやらねばならぬことは数多あった。蒼鷹娘ササカや娃白貂クミフは、矢や旗幟に不足がないか繰り返し検べて回った。また渡河のための舟がすべて揃ったわけではなかった。何せ三万弱の大軍である。
殊に軍政の長たるヒラトは多忙を極めた。矮狻猊タケチャクは間諜に細かな指示を出しては逐一大ゲルに情報を伝え、渾沌郎君ボッチギンたちはそれをもとに知恵を絞った。
例によって何もしていないのは奇人チルゲイ独りであった。とはいえ彼もさすがにじっとしているのは落ち着かないと見えて、意味もなく方々をうろついたりしていた。
とにかく誰もが来たるべき遠征に備えて忙しく、短い夏の末に先鋒のシン・セク軍がメンドゥ河を渡って、やっとひと息吐いた。だがそれは長い戦の序幕に過ぎなかった。
一連の動きにヤクマン部がまったく気づかないはずはなかった。四頭豹ドルベン・トルゲは、草原中に諜報の網を張っていたのである。
当然、ジョルチとウリャンハタが軍備を増強していることはすぐに知った。それどころか動員しうる兵力までほぼ把握していた。
しかし四頭豹はこれをトオレベ・ウルチに一切報告しなかった。ただ八旗軍に、抜かりなく準備を整えておくよう命じたばかりである。
ジョナン氏族長超世傑ムジカは、訝しんで奔雷矩オンヌクドに言うには、
「殊更に軍備を命じてくるとは何を考えているのだ。近く戦でもあるのか。ひょっとしてダルシェか? ……いや、それにしては大仰すぎる」
オンヌクドは慎重に答えて、
「今のところオルドに大きな動きはありません。遠征などの噂も聞きません」
主従は首を捻るばかり。彼らはとかく四頭豹を警戒するあまり、一度として外に目を向けなかった。
しかし独り大戦に思い至ったものがある。西軍を率いる紅火将軍キレカ・オトハンである。キレカは中央から疎まれ、遥か西方にアイルを移していたが、独自にメンドゥの対岸でウリャンハタが渡河の用意を進めていることを知ったのである。
キレカは配下に有能な謀臣もないため、ことごとく自ら考えねばならなかった。
「ウリャンハタは先年の革命以来、ジョルチと交誼がある。その敵はクル・ジョルチか、ミクケルの遺児が在る我がヤクマンのみ。ジョルチに背後を託して北へ向かうか、それともこのままメンドゥを押し渡ってくるか……」
キレカはその渾名の示すとおり火攻に長じた将であったが、もともとムジカらに比べて情勢を俯瞰する才に長けていた。ゆえにみなこれを恃みとしているのである。思うに、
「私がウリャンハタのカンならどうだろう。クル・ジョルチを放ってメンドゥを渡るか? ……しかし亜喪神も捨て置けぬ。どちらも討たねばならぬとすれば、当然易きほうを狙うだろう」
ふと顔を上げると、
「そうか。我らの政変については西原でも聞き及んでいるだろう。乗ずる隙があると看るやもしれぬ。しかも四頭豹はジョルチの仇敵、ヤクマンを攻めるなら助力を期待できる。そもそもクル・ジョルチ方面はひとまず安定していることだし……。しかし」
また目を伏せると、
「四頭豹が遠くクル・ジョルチの上卿どもと結べば、一瞬に窮地に陥る。これはもう少し査べてみないといけないな」
さしものキレカも戦の予感こそあれ、明確に判ずることはできなかった。