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草原演義  作者: 秋田大介
巻七
411/783

第一〇三回 ③

ベルダイの二華(とも)に天王の祝福を賜り

ハーンの三軍(つい)に長征の威容を(あらわ)

 インジャは諸将に言った。


「そういうわけでハトンを遠征に連れていくことができなくなった。申し訳なく思うが、諸将の意見を承りたい」


 ハツチが小声で、


「申し訳ない、などとそのような……」


 呟いたが、そこにセイネンが割り込んで言うには、


「アネク・ハトンの武威が欠けては戦力の低下は(まぬが)れません。中軍(イェケ・ゴル)の要としてご参加いただくはずでしたが、やむをえませんな」


 その口調には暗に非難の色が含まれている。さらに独りぶつぶつと、


「だからハーンには(エメ)を置くようにとあれほど……。しかしハトンはあのとおりの激しい気性(チナル)、そのようなこと(がえん)じるわけもなかったし……」


 それはあまりに小声だったので誰の(チフ)にも届かなかったが、その様子から何を考えているかは明らかだった。シズハンが見かねて(ダウン)を挙げようとしたが、その前にナオルがセイネンの膝を叩いて戒めると、


「『(クウ)はテンゲリの賜物(アブリガ)』、心からお慶び申し上げます。南征については我らよりハトンのほうが心残りでしょう。御心(オロ)(わずら)わせぬよう、(クチ)を尽くして朗報を届けられるよう努めます。みな異存のあろうはずもございません」


 そして左右を顧みれば、セイネンはううむと唸って、(ようや)く頷く。サノウは黙ってことの推移を眺めていたが、初めて(アマン)を開いて、


「ご懐妊は慶事でございます。臣には祝辞(ウチウリ)よりほかに申し上げるべき言葉(ウゲ)はございません。南征はまた自ずから別のこと、編成についてはみなで(はか)ってのちほど報告に参ります」


 インジャはその表情を窺ったが、何の感情も読み取れなかった。再びナオルが言うには、


「出陣の前にテンゲリより子を授かったのは吉兆(スルデル)です。南征の成功は疑うべくもありません。天下にこれをお知らせになり、喜び(ヂルガラン)をともにいたしましょう」


 これにはインジャはいささか難色を示したが、ハツチも賛成したので早速その(ウドゥル)のうちに使者が立てられ、駅站(ヂャム)を通って諸方に伝えられた。


 すると早くも翌日にはズレベン台地からイエテンが祝いの品を持って駆けつけたほか、四方の僚友(ネケル)から慶賀の使者が集まった。ウリャンハタからも例のごとくチルゲイが来て祝辞を捧げた。


 インジャはいずれも親しく引見し、厚く返礼(カリラ)した。隣席(サーハルト)のアネクもほっとしたようであった。人衆(ウルス)もみなおおいに喜び、それぞれ祝ったが、この話もここまでにする。




 ジョルチがアネク懐妊で湧いていたそのころ、マシゲルでも同じように全人衆が喜びに包まれていた。アンチャイ・ハトンもまた子を宿したのである。


 獅子(アルスラン)ギィは赫大虫ハリンからこれを聞いたとき、ちょうど弓を手入れしていたが、かまわず放り出すと大喜びで奥座(コイマル)に駈け込んだ。


「ハトン、子ができたとは(ウネン)か!」


 瓊朱雀(けいしゅじゃく)はその紅い頬(アル・ハツァル)をさらに(あから)めて、


はい(ヂェー)


 小さく答えた。ギィはその身を抱き締めて、


「よくやった! 男でも女でもよい、健やかな子を産め!」


 みなを集めてこれを告げれば、欣喜雀躍して祝辞を述べる。早速祝宴となり、おおいに盛り上がった。ギィは感慨深げに言うには、


「今日あるのも神箭将(メルゲン)や奇人たちのおかげだ。厚く礼をせねばなるまい」


 そこで諸方に使者を立てて、礼物(サウクワ)とともにこれを伝えさせることにした。ただ超世傑ムジカらには遠慮して送らなかった。


 無論、アンチャイの実家(ナガチュ)であるベルダイ氏キハリ家にも知らせた。キハリの長老(モル・ベキ)は、族長(ノヤン)である霹靂狼トシ・チノに告げて、


「アンチャイは獅子の子を授かりましたぞ」


「おお、めでたい! ハーンにもすぐに報せよ」


 アネクはこの吉報に胸を躍らせた。幼少より双子の姉妹のごとく育ったアンチャイが、ときを同じくして身籠った偶然をテンゲリに感謝したのである。インジャも心から喜んで祝賀の使者を派することにした。


 この二人の女傑の子は、草原(ミノウル)の歴史において重要な宿運(ヂヤー)を負って生まれてくるのだが、それはまたのちの話。


 この年以降、多くの英傑(クルゥド)の子が生まれてくる。(ハバル)にはムジカの(エメ)、打虎娘タゴサも懐妊する。またトシ・チノやマタージ、ウリャンハタのヒラト、スク・ベクなど、いわゆる「黄金世代」の次代を担う赤子(ニルカ)が次々と産声を挙げるのである。


 さてインジャの(エケ)、聖母太后ムウチはアネクを訪ねて言った。


「お身体を大切になさい。よく食べ、よく動き、(セトゲル)安寧(オルグ)に保ちなさい。ハーンは南征に発たれますが、決して気に病んではいけませんよ」


はい(ヂェー)、お義母様。そのように努めます」


 神妙に答えると優しく微笑んで、


「貴女は健やかでいることだけを考えなさい。(ソオル)男衆(ブステイ)(まか)せておきましょう」


はい(ヂェー)


「南征が始まったら、オロンテンゲルの山塞へ参りましょう。戦の(サルヒ)(ゲデス)の子に好くありません。貴女も鉄鞭(テムル・タショウル)(うた)われた人、戦の風は心を騒がせるでしょう」


 そしてふっと寂しげに笑うと、


「貴女とその子には危ない思いをさせたくないのです」


 アネクははっとして(ニドゥ)を伏せる。ムウチが言うのは、インジャがまだその腹にあったころ、テクズスの背叛によって命からがらタムヤへ逃げ延びたこと(注1)を指すのであろう。


 もしそのときテンゲリの加護が得られず、アイヅムの(ウルドゥ)に懸かっていれば、アネクと出会うこともなく、それどころか草原(ミノウル)姿(カラア)はまったく違うものとなっていたはずである。アネクは厚く謝辞を述べたが、この話もここまでにする。

(注1)【タムヤへ逃げ延びたこと】第 一 回②、および第 一 回③参照。

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