第一〇三回 ③
ベルダイの二華俱に天王の祝福を賜り
ハーンの三軍遂に長征の威容を顕す
インジャは諸将に言った。
「そういうわけでハトンを遠征に連れていくことができなくなった。申し訳なく思うが、諸将の意見を承りたい」
ハツチが小声で、
「申し訳ない、などとそのような……」
呟いたが、そこにセイネンが割り込んで言うには、
「アネク・ハトンの武威が欠けては戦力の低下は免れません。中軍の要としてご参加いただくはずでしたが、やむをえませんな」
その口調には暗に非難の色が含まれている。さらに独りぶつぶつと、
「だからハーンには妾を置くようにとあれほど……。しかしハトンはあのとおりの激しい気性、そのようなこと肯じるわけもなかったし……」
それはあまりに小声だったので誰の耳にも届かなかったが、その様子から何を考えているかは明らかだった。シズハンが見かねて声を挙げようとしたが、その前にナオルがセイネンの膝を叩いて戒めると、
「『子はテンゲリの賜物』、心からお慶び申し上げます。南征については我らよりハトンのほうが心残りでしょう。御心を煩わせぬよう、力を尽くして朗報を届けられるよう努めます。みな異存のあろうはずもございません」
そして左右を顧みれば、セイネンはううむと唸って、漸く頷く。サノウは黙ってことの推移を眺めていたが、初めて口を開いて、
「ご懐妊は慶事でございます。臣には祝辞よりほかに申し上げるべき言葉はございません。南征はまた自ずから別のこと、編成についてはみなで諮ってのちほど報告に参ります」
インジャはその表情を窺ったが、何の感情も読み取れなかった。再びナオルが言うには、
「出陣の前にテンゲリより子を授かったのは吉兆です。南征の成功は疑うべくもありません。天下にこれをお知らせになり、喜びをともにいたしましょう」
これにはインジャはいささか難色を示したが、ハツチも賛成したので早速その日のうちに使者が立てられ、駅站を通って諸方に伝えられた。
すると早くも翌日にはズレベン台地からイエテンが祝いの品を持って駆けつけたほか、四方の僚友から慶賀の使者が集まった。ウリャンハタからも例のごとくチルゲイが来て祝辞を捧げた。
インジャはいずれも親しく引見し、厚く返礼した。隣席のアネクもほっとしたようであった。人衆もみなおおいに喜び、それぞれ祝ったが、この話もここまでにする。
ジョルチがアネク懐妊で湧いていたそのころ、マシゲルでも同じように全人衆が喜びに包まれていた。アンチャイ・ハトンもまた子を宿したのである。
獅子ギィは赫大虫ハリンからこれを聞いたとき、ちょうど弓を手入れしていたが、かまわず放り出すと大喜びで奥座に駈け込んだ。
「ハトン、子ができたとは真か!」
瓊朱雀はその紅い頬をさらに赧めて、
「はい」
小さく答えた。ギィはその身を抱き締めて、
「よくやった! 男でも女でもよい、健やかな子を産め!」
みなを集めてこれを告げれば、欣喜雀躍して祝辞を述べる。早速祝宴となり、おおいに盛り上がった。ギィは感慨深げに言うには、
「今日あるのも神箭将や奇人たちのおかげだ。厚く礼をせねばなるまい」
そこで諸方に使者を立てて、礼物とともにこれを伝えさせることにした。ただ超世傑ムジカらには遠慮して送らなかった。
無論、アンチャイの実家であるベルダイ氏キハリ家にも知らせた。キハリの長老は、族長である霹靂狼トシ・チノに告げて、
「アンチャイは獅子の子を授かりましたぞ」
「おお、めでたい! ハーンにもすぐに報せよ」
アネクはこの吉報に胸を躍らせた。幼少より双子の姉妹のごとく育ったアンチャイが、ときを同じくして身籠った偶然をテンゲリに感謝したのである。インジャも心から喜んで祝賀の使者を派することにした。
この二人の女傑の子は、草原の歴史において重要な宿運を負って生まれてくるのだが、それはまたのちの話。
この年以降、多くの英傑の子が生まれてくる。春にはムジカの妻、打虎娘タゴサも懐妊する。またトシ・チノやマタージ、ウリャンハタのヒラト、スク・ベクなど、いわゆる「黄金世代」の次代を担う赤子が次々と産声を挙げるのである。
さてインジャの母、聖母太后ムウチはアネクを訪ねて言った。
「お身体を大切になさい。よく食べ、よく動き、心を安寧に保ちなさい。ハーンは南征に発たれますが、決して気に病んではいけませんよ」
「はい、お義母様。そのように努めます」
神妙に答えると優しく微笑んで、
「貴女は健やかでいることだけを考えなさい。戦は男衆に委せておきましょう」
「はい」
「南征が始まったら、オロンテンゲルの山塞へ参りましょう。戦の風は腹の子に好くありません。貴女も鉄鞭と謳われた人、戦の風は心を騒がせるでしょう」
そしてふっと寂しげに笑うと、
「貴女とその子には危ない思いをさせたくないのです」
アネクははっとして目を伏せる。ムウチが言うのは、インジャがまだその腹にあったころ、テクズスの背叛によって命からがらタムヤへ逃げ延びたこと(注1)を指すのであろう。
もしそのときテンゲリの加護が得られず、アイヅムの剣に懸かっていれば、アネクと出会うこともなく、それどころか草原の姿はまったく違うものとなっていたはずである。アネクは厚く謝辞を述べたが、この話もここまでにする。
(注1)【タムヤへ逃げ延びたこと】第 一 回②、および第 一 回③参照。