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草原演義  作者: 秋田大介
巻七
410/783

第一〇三回 ②

ベルダイの二華(とも)に天王の祝福を賜り

ハーンの三軍(つい)に長征の威容を(あらわ)

 ツジャンが向き直ると、喜び(ヂルガラン)に堪えぬ調子で言った。


「いよいよ北伐ですか」


うむ(ヂェー)。来夏、決行する。準備を進めよ」


 ヒィ・チノの(ダウン)もやや(はず)んでいる。さらに続けて、


神行公(グユクチ)は、光都(ホアルン)へ行って、楚腰公サルチンに舟の手配を。帰途、南伯シノンに会って北伐中の後衛をそれぞれ要請してこい」


承知(ヂェー)


「次の北伐には司命娘子も連れていく。アケンカムの兵をまとめておけ」


はい(ヂェー)


 ヒィ・チノは両の掌をぱちりと打ち合わせると、諸将に向かって言った。


「さあ、ナルモントの(クチ)を思い知らせてやろう。おおいなる(イェケ・テンゲリ)天の力(・イン・クチュン)にて(・ドゥル)鎮氷河の(アミン)を絶つ!」


 諸将はおうと応えて胸中に(ガル)を燃やす。酒食が運ばれてお決まりの宴となったが、くどくどしい話は抜きにする。


 こうして東原では北伐の準備が始まった。その間、中原、西原でも南征の備えが着々と進められていた。さまざまな思いが交錯するうちに新たな(ヂル)を迎える。




 (さる)の年。インジャがハーンとなってちょうど五年目、フドウ再建からはいつしか十二年もの月日が流れた。


 「亡族の小僧(ニルカ)」と(あざけ)られていたインジャも二十七歳となる。そしてかつて侮蔑の言葉(ウゲ)を放った敵人(ダイスンクン)は、一人としてこの世にない。アイヅム氏のテクズス然り、ベルダイ右派(バラウン)のサルカキタン然り、ウリャンハタ部のミクケル然りである。


 数多の(ブルガ)を破ってきたインジャの前に立ち(ふさ)がるは、今やヤクマン部の英王トオレベ・ウルチと四頭豹ドルベン・トルゲのみと云ってよい。


 殊に四頭豹。インジャの前に現れては常にその行く手を遮る宿敵である。なぜあれほどの才略(アルガ)を有した男が、例外なくインジャの敵、すなわち非道の(エルキム)助力(トゥサ)するのか。


 インジャは近ごろよく彼のことを考えるが、かつて恨みを得た覚えもなく、ただ言い知れぬ不安が募るばかりであった。また黙考しているところにテヨナが現れて、その思索を断った。


「ハーン。お知らせしたきことが」


「鑑子女か。何だ?」


 そう問うとしばし躊躇する。やがて言いにくそうな様子で、


「あの、喜ばしいことなのですが。ただ……」


「慶事なら遠慮することはないではないか」


 (オロ)を決したテヨナの(アマン)から出た言葉(ウゲ)は、インジャをおおいに驚かせるものであった。何と言ったかといえば、


「ハトンが、ご懐妊なされました」


「えっ……?」


 思わず言葉を失う。そして、


(ウネン)か!!」


 テヨナは黙って頷く。と、インジャの(ヌル)は何やら複雑な様相を呈する。まず喜色が浮かばんとするもあえてそれを打ち消し、また(ハツァル)が緩むのを抑えがたいといったところ。


 さてさて、なぜアネクの懐妊についてテヨナが言い(よど)み、インジャがまっすぐ喜びを表さないのかといえば、近く南征を控えているためということになる。


 ハトンである以前に「鉄鞭(テムル・タショウル)のアネク」は、ジョルチ軍随一の勇将(バアトル)だった。しかし懐妊ともなれば、もちろん南征に参加することはできない。遠征軍の編成そのものを再考しなければならないのである。


 半ば喜び、半ば困ったような微妙な顔でテヨナを退かせると、しばらくぼんやりしていたが、(ようや)奥座(コイマル)へ向かう。果たしてアネクは端座して待っていた。インジャの姿(カラア)を認めると、はっとして何も言わずにこれを見る。


「ハトン……」


 小さく声をかけると、アネクはつと(ニドゥ)を伏せて、


「このようなときに、申し訳ありません」


 インジャはその(ムル)にそっと(ガル)を置くと、


「何を言う。『(クウ)天王(フルムスタ)様よりの賜物(アブリガ)』、慶事ではないか。我ら二人で授かった子だ、何でハトンが謝ることがある」


「ハーン……。しかし南征が。……サノウ辺りが何と言うか……」


 その(オロウル)にそっと(ホロー)を当てると、


「気にするなと言っているだろう。誰にも何も言わせはしない。心穏やかにして健やかな子を産んでほしい」


 二人はつと寄り添って言葉を交わし合ったが、くどくどしい話は抜きにする。


 奥座をあとにしたインジャは、早速サノウらを召した。応じてやってきたのはほかに胆斗公(スルステイ)ナオル、美髯公(ゴア・サハル)ハツチ、鑑子女テヨナ、小白圭シズハン、長旛竿(オルトゥ・トグ)タンヤン。そしてつい先日南原から戻ったばかりの百策花セイネンの顔もある。


「突然呼び出したのはほかでもない。南征についてひとつ予定を変更しなければならぬ」


 セイネンが虚を衝かれた様子で、


「……と、言われますと?」


 インジャは目でテヨナを(うなが)す。頷いて言うには、


「実は、ハトンがご懐妊なされました」


 おお、とざわめきが起こる。サノウは一瞬(フムスグ)(ひそ)めたようだったが、すぐにもとの無表情に戻る。タンヤン独りが大喜びで、


「それはおめでとうございます! その報せをお待ちしておりましたぞ!」


 傍ら(デルゲ)のハツチがそっと(カンチュ)を引いたので、タンヤンはわけがわからぬまま口を閉ざす。

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