第一〇三回 ②
ベルダイの二華俱に天王の祝福を賜り
ハーンの三軍遂に長征の威容を顕す
ツジャンが向き直ると、喜びに堪えぬ調子で言った。
「いよいよ北伐ですか」
「うむ。来夏、決行する。準備を進めよ」
ヒィ・チノの声もやや弾んでいる。さらに続けて、
「神行公は、光都へ行って、楚腰公サルチンに舟の手配を。帰途、南伯シノンに会って北伐中の後衛をそれぞれ要請してこい」
「承知」
「次の北伐には司命娘子も連れていく。アケンカムの兵をまとめておけ」
「はい」
ヒィ・チノは両の掌をぱちりと打ち合わせると、諸将に向かって言った。
「さあ、ナルモントの力を思い知らせてやろう。おおいなる天の力にて鎮氷河の命を絶つ!」
諸将はおうと応えて胸中に炎を燃やす。酒食が運ばれてお決まりの宴となったが、くどくどしい話は抜きにする。
こうして東原では北伐の準備が始まった。その間、中原、西原でも南征の備えが着々と進められていた。さまざまな思いが交錯するうちに新たな年を迎える。
猴の年。インジャがハーンとなってちょうど五年目、フドウ再建からはいつしか十二年もの月日が流れた。
「亡族の小僧」と嘲られていたインジャも二十七歳となる。そしてかつて侮蔑の言葉を放った敵人は、一人としてこの世にない。アイヅム氏のテクズス然り、ベルダイ右派のサルカキタン然り、ウリャンハタ部のミクケル然りである。
数多の敵を破ってきたインジャの前に立ち塞がるは、今やヤクマン部の英王トオレベ・ウルチと四頭豹ドルベン・トルゲのみと云ってよい。
殊に四頭豹。インジャの前に現れては常にその行く手を遮る宿敵である。なぜあれほどの才略を有した男が、例外なくインジャの敵、すなわち非道の主に助力するのか。
インジャは近ごろよく彼のことを考えるが、かつて恨みを得た覚えもなく、ただ言い知れぬ不安が募るばかりであった。また黙考しているところにテヨナが現れて、その思索を断った。
「ハーン。お知らせしたきことが」
「鑑子女か。何だ?」
そう問うとしばし躊躇する。やがて言いにくそうな様子で、
「あの、喜ばしいことなのですが。ただ……」
「慶事なら遠慮することはないではないか」
意を決したテヨナの口から出た言葉は、インジャをおおいに驚かせるものであった。何と言ったかといえば、
「ハトンが、ご懐妊なされました」
「えっ……?」
思わず言葉を失う。そして、
「真か!!」
テヨナは黙って頷く。と、インジャの顔は何やら複雑な様相を呈する。まず喜色が浮かばんとするもあえてそれを打ち消し、また頬が緩むのを抑えがたいといったところ。
さてさて、なぜアネクの懐妊についてテヨナが言い淀み、インジャがまっすぐ喜びを表さないのかといえば、近く南征を控えているためということになる。
ハトンである以前に「鉄鞭のアネク」は、ジョルチ軍随一の勇将だった。しかし懐妊ともなれば、もちろん南征に参加することはできない。遠征軍の編成そのものを再考しなければならないのである。
半ば喜び、半ば困ったような微妙な顔でテヨナを退かせると、しばらくぼんやりしていたが、漸く奥座へ向かう。果たしてアネクは端座して待っていた。インジャの姿を認めると、はっとして何も言わずにこれを見る。
「ハトン……」
小さく声をかけると、アネクはつと目を伏せて、
「このようなときに、申し訳ありません」
インジャはその肩にそっと手を置くと、
「何を言う。『子は天王様よりの賜物』、慶事ではないか。我ら二人で授かった子だ、何でハトンが謝ることがある」
「ハーン……。しかし南征が。……サノウ辺りが何と言うか……」
その唇にそっと指を当てると、
「気にするなと言っているだろう。誰にも何も言わせはしない。心穏やかにして健やかな子を産んでほしい」
二人はつと寄り添って言葉を交わし合ったが、くどくどしい話は抜きにする。
奥座をあとにしたインジャは、早速サノウらを召した。応じてやってきたのはほかに胆斗公ナオル、美髯公ハツチ、鑑子女テヨナ、小白圭シズハン、長旛竿タンヤン。そしてつい先日南原から戻ったばかりの百策花セイネンの顔もある。
「突然呼び出したのはほかでもない。南征についてひとつ予定を変更しなければならぬ」
セイネンが虚を衝かれた様子で、
「……と、言われますと?」
インジャは目でテヨナを促す。頷いて言うには、
「実は、ハトンがご懐妊なされました」
おお、とざわめきが起こる。サノウは一瞬眉を顰めたようだったが、すぐにもとの無表情に戻る。タンヤン独りが大喜びで、
「それはおめでとうございます! その報せをお待ちしておりましたぞ!」
傍らのハツチがそっと袖を引いたので、タンヤンはわけがわからぬまま口を閉ざす。