第一〇二回 ④
盤天竜バラウンに生鋼の餞別を贈り
鉄面牌ヒスワに最後の上奏を作す
ヘカトの策はこれでほぼ成就した。軍を拡充すると見せて兵権を分散し、しかも大将同士を反目させることでその力を減殺したのである。
それでも上に立つものが有能であれば侮れないが、スブデイを推すことによって、ジュレン軍はまさに烏合の衆と化した。
さらに歴戦の精兵はことごとく近衛軍に引き抜いた。ジュレン軍は陣容こそ華やかだが、その実は名のみの存在に堕したのである。
だが、ヘカトにはまだやり残したことがあった。
軍制改編からしばらくして密かにグルカシュを訪ねる。彼は今回の件はヘカトの奏上によるものと承知していたので、不快を隠そうともせずこれを迎えた。ヘカトは慇懃に挨拶して席に着くと、
「このたびのこと、将軍はさぞお怒りのことでしょう。しかしこれは将軍の身を慮って為したことなのです」
「どういう意味だ。巧みに言い逃れようとするか」
凄んで見せたが、鉄面にて受け流すと、
「やはりご自分の身が危地にあったことをご存知なかったようですな」
「この俺が? 何を言っている」
殊更に辺りを見廻して声を潜めると、
「……実は将軍があまりに巨大な力を有しているので、大皇帝は猜疑の心をお持ちでした。あのままでは早晩罪を着せられて粛清されていたかもしれません」
グルカシュは強がっていはいても、もとは市井の無頼漢に過ぎない。たちまち青ざめると、
「まさか! 大皇帝に限ってそのような……」
「私は閣卿の一員である以上、外には漏れえぬことも耳に入ります」
「…………」
ただ呆然とする。ヘカトはさらに声を低くして言った。
「これから話すことは誰にも言ってはなりませぬぞ。将軍を誣告(注1)したものがあります」
「だ、誰だ、それは!」
青くなったり赤くなったりするグルカシュの反応を内心楽しみながら、
「ただこれを言うと、将軍方の結束に罅が入りかねません。果たして教えてよいものやら……」
あえて言葉を濁せば、必死の形相で、
「将軍だと? ではあの小心のムンヂウンか、それとも魯鈍なタイラントか……。教えてくれ、頼む! そこで口を閉ざされては、誰もが疑わしく思えてしまうではないか」
「それはよろしくありませんな。しかし将軍、軽挙は慎まねばなりませんぞ」
「わかっておる! さあ!」
「ではお教えしましょう。……金毛狗殿が兵権を私せんとして将軍を誣告していたのです」
その名を聞いて、グルカシュの顔はついに紫色に染まる。
「あ、あ、あの豎子め、侮るにもほどがあろう!」
今にも駈けだしていきそうなのを押し止めると、
「軽挙はなりません! それだけではないのです」
「どういうことだ」
「ここまで話したら、すべてお話ししたほうが将軍のためになるかもしれません。結局のところ、その誣告を知ったスブデイ様が欲を逞しくして軍制改編を画策したのです。スブデイ様にとっては、呼擾虎殿が失脚しても、代わって金毛狗殿が兵権を掌握しては意味がなかったのでしょう」
「くっ、あの俗物め! 兵事など何もわからぬくせに……」
歯をぎりぎりと鳴らして憤激する。ヘカトは静かに言った。
「でもおかげで将軍を危地からお救いできました。私が以前から将軍を尊敬していることはご承知かと存じますが、スブデイ様の野望を叶えたために自然将軍の兵は減り、大皇帝の疑心も解かれたわけです。私はただ将軍のためを思ってことを進めたのですが、もしや誤解されていてはと案じてお訪ねした次第です」
「そうだったのか。鉄面牌、疑ってすまなかった。それにしても恕せぬのはダルチムカ、いや、スブデイだ。彼奴が元帥だと? 嗤わせるな」
「まあまあ、将軍。ここは自重すべきです。何と言ってもスブデイ様は大皇帝の従弟にあらせられます。しかも今や元帥、迂闊に動くと将軍の失脚を願っているものに絶好の口実を与えることになります」
「むむむ、何とも腹立たしい……」
「スブデイ様はあれでなかなか謀略に長けた方。戦に託けて、将軍を亡きものにしようと図るやもしれません。警戒を怠らぬようになさい」
「承知した。感謝するぞ、鉄面牌。これからも何かあったら伝えてくれ」
「無論でございます。私はいつも将軍の味方です」
平然と言って退出する。表に出てしばらく街路を歩くうちに笑いが込み上げてくる。ついには堪えきれずに腹を抱えて大笑する。その足で宮殿に向かうと、ヒスワに拝謁して言うには、
「今や軍制は整い、天下制覇のときは近づいてまいりました。そこでこの鉄面牌、閣卿の職を辞して、陛下のために自ら草原の情勢を探ってこようと思います。お許しいただけるでしょうか」
ヒスワはおおいに驚いたが、傍らからスブデイが言うには、
「陛下、草原の渾沌とした情勢を知るには、彼の才略は欠かせません。ヘカトの忠誠を嘉してお委せになるべきです」
実はこれも計算のうちであった。近ごろスブデイは、ヘカトばかりが重用されるので内心これを疎ましく思っていた。それを知った上で、あえてスブデイの居る時刻を選んで拝謁を願ったというわけである。
ヒスワは渋々ながらこれを認める。これでヘカトは誰憚ることなく神都を出られることとなった。
「笑裏蔵刀(笑いの裏に刀を蔵す)」の語はもとより賛辞にあらざるも、独り鉄面牌については、蔵刀のただ奸侫にのみ向けられるとあらば、どうして賛辞に用いてならぬことがあろうか。
かつて間者としてこれほどの大功を成したものはないが、それもすべては鉄面牌の温顔がもたらしたものである。大勇とはまさにこのこと。
だが俚諺にも「九仞の功を一簣に虧く(注2)」と謂うように、神都を出るまでは慢心できぬ。果たしてヘカトは無事に虎口を逃れるだろうか。それは次回で。
(注1)【誣告】故意に事実と異なる内容で、人を訴えること。わざと事実をまげていうこと。
(注2)【九仞の功を一簣に虧く】高い山を築くのに、最後のもっこ一杯の土が足りないために完成しない。つまり、長い間の努力も最後の少しの過失からだめになってしまうこと。「仞」は高さの単位、「簣」は土を運ぶもっこ、「虧」は欠に同じ。