第一〇二回 ③
盤天竜バラウンに生鋼の餞別を贈り
鉄面牌ヒスワに最後の上奏を作す
平伏して挨拶するヘカトを制して、ヒスワは言った。
「今日もまた私を喜ばせる策を持ってきたのか」
「はい。今や陛下の威勢は天下に轟いておりますが、惜しむらくは皇軍が武威のよろしきを得ておりませぬ」
顔色を窺えば、ややむっとした様子。かまわず続けて、
「皇軍を帥いておられるのは、内には呼擾虎グルカシュ殿、外には金毛狗ダルチムカ殿のお二人です。しかし肝心の陛下はただ一人の兵もお持ちではありません」
「そのとおりだ。続けよ」
その声は怒気を孕んでいる。
「またその擁する兵は、とても多いとは申せませぬ。装備こそどの部族にも劣るものではありませんが、これでは天下を統べる皇軍として不足かと存じます」
「どうすればよい」
不興な表情でありながら、明らかに引き込まれているのを看て取って、内心ほくそ笑みつつも素知らぬ顔で、
「一に近衛軍の増強です。二将の麾下にある兵の中から猛勇のものを選抜し、陛下の盾となさいませ。さすればいかなる変事が出来しても陛下の玉体に危険が及ぶことはありますまい」
そこで声を潜めて、
「……もし呼擾虎殿が不逞の心を宿しても、そうしておけば安心です」
「何だと!」
ヒスワは驚愕して叫ぶ。ヘカトはわざとあわてた様子で、
「いえ、例えばの話でございます。呼擾虎殿の忠義は誰しも認めるところ。……ただ兵権が独り将軍に集まっているのは穏当ではありません。甘言を囁いて将軍を煽り、騒ぎを起こそうとする輩があるやもしれません。ゆえに陛下直属の軍を新設し、かつこの軍こそジュレン最強の精兵である必要がございます」
「ううむ、たしかにそうだ」
ヘカトは意を強くして、
「二に、かの二人と同格の将軍を増やすことです。そして彼らに近衛軍を凌駕する兵を与えてはいけません。また新たな将軍を任命するときには、なるべく呼擾虎殿や金毛狗殿と反目するものを抜擢なさいませ。というのも軍中に強大な派閥を形成させないためであります。また互いに競わせることによって軍の質は向上し、陛下は彼らを御しやすくなりましょう」
「なるほど、至言じゃ」
膝を打って感嘆したが、ふっと険しい顔つきになると、
「しかし鉄面牌。それでは呼擾虎らが不満を持つのではないか?」
「その点はご安心を。我が帝国には爵位の制がございます。兵を減らす代わりにその爵位を一等進めて、幾つかの特権をお許しになればよいのです。呼擾虎殿と金毛狗殿は帝国の功臣、新たに任命される将より爵位が上に在るのは当然です」
ヒスワはふうむと唸ると、髭をしごきつつ思案する。
「三に、そもそもジュレン部は他の蛮族とは異なり、古来より軍を統べるのは文官貴族と決まっておりました。それは軍を統御するのにまことに有効な法でありました。陛下もこの賢明なる慣習に倣って、信頼ある方を元帥として軍を統べさせるとよろしいでしょう」
「しかしこの乱世に軍を委ねるべきものが、文官の中にあるだろうか」
「臣おもえらく、閣卿の筆頭たるスブデイ・ベク様こそ相応しいかと存じます。もっとも近しい皇族であり、経験、実績とも余人の及ばぬところです」
「あれは軍事は不得手ではないのか?」
訝しげに問えば、大仰に首を振って、
「いえ、スブデイ様は実に万巻の兵書に通暁せられ、その見識の深さは市井の賢人たちも舌を巻くほど。軍事が不得手などとどうして申せましょう」
ヒスワはやや虚を衝かれて、
「ほう、あいつが。それは知らなかった」
スブデイが近ごろ兵書に親しんでいるのは事実である。しかしそれはヘカトの勧めに応じて俄かに凝りはじめたもの。
その実力はといえば、少しでも用兵を知っているものから見れば話にもならない程度であった。しかもヘカトがいちいち虚偽を教えるため、怪しげな知識ばかりが蓄えられていたのである。
ヘカトは内心おかしくてしかたなかったが、渾名のとおり表情ひとつ変えずに言った。
「元帥は軍の頂点。戦場にあってその命令は、陛下の勅命に等しいものと将兵に心得させるべきです。また将軍に兵を預けるときには必ず軍監を付けて、動向を扼せしめるとよいでしょう」
「うむ」
「かくして軍は陛下の狗となって原野を駆け、剣となって敵人を討ち、盾となって玉体を護るでしょう。ジュレン大皇帝陛下の威令が天下に行われる日も遠くはありませんぞ。お慶び申し上げます」
恭しく平伏して奏上を了える。
果たして献策はひとつ余さず実現の運びとなった。まず各軍より精兵、勇将が選び抜かれた近衛軍が創設された。グルカシュらは微かに難色を示したが、異議を唱えることはなかった。
近衛大将には千人長の中から「青面鼬」の渾名を持つヒムガイが抜擢された。顔一面に青痣のある恐ろしい風貌の主である。
また呼擾虎、金毛狗の軍はそれぞれ分割されて、新たに四人の将軍が立てられた。すなわちムンヂウン、ハラ・ドゥイド、ブギ・スベチ、タイラントの四名である。いずれも金毛狗らの専横を快く思っていなかったものばかり。
これで計六軍が設けられたことになるが、これはヘカトが、
「中華の皇帝は六軍を有すると謂います」
そう吹き込んだからである。またこれとは別に、遊軍のごとき小隊が数多く増やされた。総じてそれは二十四隊に及び、それぞれ長が任命された。その名はここでは述べない。
そして無能の侫者、スブデイ・ベクが元帥となった。実戦などもとより知るはずのないこの皇族が軍制の頂点に立ったのである。応じて爵位が進められ、スブデイは「鄭王大元帥」の称を得た。
呼擾虎グルカシュは侯爵大将軍から「神都公大将軍」に、金毛狗ダルチムカは南伯鎮南将軍から「呉侯前将軍」となった。
そして新しい四人の将軍は子爵の位を得た上、それぞれ征東、征西、征南、征北将軍に任ぜられた。