第一〇一回 ④
チルゲイ一たび聖医に託して病理を解明し
バラウン再び妙策に罹りて絶澗に動揺す
黒鉄牛は堪えきれずに言った。
「チルチル、いるか」
「ここにおります。ご心配なく」
「そ、そうか。ならよい」
強がる黒鉄牛の額には脂汗が浮かぶ。緊張を保ったまま、ときは流れる。かつてのカラバルと同様である。
突如、金鼓の音が轟き、静寂を破った。わあっと喊声が挙がり、馬の嘶き、刀槍の交わる音が巻き起こる。黒鉄牛は思わず立ち上がる。闇の中からチルゲイが現れて言った。
「先鋒が敵と遭遇しました。座してお待ちを」
そして再び視界から消える。
「あ、チルチル、どこへ行く!」
次いで現れたのはミヤーン。
「敵はあわてておりますぞ。定めのとおり金鼓を鳴らしてください」
そう言ったかと思うと、もうそこにはいない。
「えっ、定めとは何だ! 知らぬぞ!」
喚くと同時に鼓が八つ、鉦が三つ、交互に轟いた。驚いていると、
「合図はすみました。さらに一隊を投入します」
もともとそれはオンヌクドの役であったが、今はセイネンの声。彼もまたすぐに去る。
「いったいどうなっているのだ!」
焦って叫んだが、絶え間ない怒号と干戈の音にかき消される。大地は鳴動し、生きた心地もしない。ナユテが近づいてきて、
「バラウン様、我が軍の優位は動いておりません。機を見て、先の合図を出してください。鼓八つ、鉦三つです。いずれ捷報がもたらされるでしょう」
「チ、チルチルは……」
「督戦しております。私も参らねばなりません」
制止も聞かずに彼もまた視界の外に去る。黒鉄牛は為す術もなく右顧左眄するばかり。激戦が展開されているようだが、どんなに目を凝らしても何も判らない。一向に干戈の響きは止まず、耳を塞ぎたい衝動に駆られる。
人馬の悲鳴は入り乱れて渦巻き、テンゲリから降ってくるかと思えば、エトゥゲンから湧いてくるようでもある。
「ど、どうなっているのだ……」
泣きそうな顔で立ち尽くす。そうするうちに何やら腹の底から抑えがたい不安が、黒雲のごとく迫り上がってくる。荒く息を吐きながら、
「こ、これは……。俺は前にもこのような……」
理由は判然とせぬものの抗いがたい恐怖を覚える。襲い来る既視感に震え慄きつつ、いつしかテンゲリに祈りはじめる。
やがて、ゆっくりと空気が流れはじめた。視界は徐々に青く、そして白く変わり、漸く明るくなってくる。東方から涼風が吹き、霧を払っていく。
「あ、朝か……?」
黒鉄牛は呟く。しかしその目は堅く閉じられたまま。
風が衣を剥ぐように霧を散らす。おそるおそる目を開く。まだ朧げな世界へじっと視線を注げば、卒かにそれは飛び込んできた。
すなわち、散乱するマシゲルの旗。
「あ、ああ、ああっ!」
言葉にならない叫びを挙げて、黒鉄牛はがっくりと崩れ落ちる。次の瞬間、猛烈な頭痛に襲われてのたうち回る。呻きつつやっと言うには、
「や、夜襲に友軍相討てば、必ず、敗れる……」
必死の思いで身を起こすと、
「俺は、俺は何ということを……」
あとは意味のない語を並べつつ、よろよろと戦場とは逆の方向へ去ろうとする。そこに鋭く声がかかった。
「待て、バラウン!」
びくりとして足を止め、ゆっくりと振り返れば、何と獅子ギィが颯爽と立っている。その左右には蓋天才、迅矢鏃、赫彗星、双角鼠が居並ぶ。
「わ、わあっ!!」
バラウンは悲鳴を挙げて腰を抜かす。そのまま伏して幾度も叩頭しつつ、
「お恕しください! お恕しください! 私は奸者に陥れられて……」
ギィはからからと笑うと、
「それはこのものらのことか」
背後を指し示せば、奇人、神道子、百策花、飛生鼠、そしてミヤーンが立っている。バラウンはあっと驚いて声も出ない。魚のごとく口をぱくぱくさせて、目瞬きすら忘れた様子。
もとより策謀は人の忌むところなるも、ことによりては一個の人材を蘇生せしめ、天下万民を益することもある。古言には「聖を断ち、智を棄てよ。民の利は百倍せん」とあるが、今ここにセチェン(知恵者)なければ、妄者をして能く正道に還らしめることができただろうか。
これこそまさに詩に謂う「智は用いるべし、賢は貴ぶべし」といったところ。果たしてバラウンの記憶は復しただろうか。それは次回で。