第一〇一回 ③
チルゲイ一たび聖医に託して病理を解明し
バラウン再び妙策に罹りて絶澗に動揺す
「では、私はオルドへ戻る。あとは嘱んだぞ」
「承知」
ナユテが答える。ギィは頷くと、黒鉄牛に質問の暇も与えず駆け去る。困ったのは黒鉄牛。不安な面持ちでチルゲイらを顧みる。
「バラウン様、案ずるには及びませぬ」
「そう言われても……。だいたい俺は、自分がバラウンという男であるかどうかも判らんのです」
「判らなくてもよいのです。便宜上、将軍は『バラウン様』と呼ばれるということです」
「ああ、そう言えば貴殿らの名を聞いていませんでした」
その問いを待ってましたとばかりににやりと笑うと、チルゲイは決然と胸を反らして言い放つ。何と言ったかと云えば、
「チルチルです! 遠くギィ様の名を慕って参りました。以後お見知りおきを」
ナユテもまた笑いながら進み出て、
「同じくナユナユでございます」
ミヤーンを手招いて促せば、溜息を吐いて、
「……ミヤミヤです」
ともかく彼らは指示どおりその場に営することにした。黒鉄牛は初めは困惑していた。しかし毎日チルゲイらがこれを丁重に扱ったので、いつしかその気になって自然と主のごとくふるまうようになった。
さてそれから毎日のように、十騎、二十騎とやってきては帰属を請う。その中には赫彗星ソラや、双角鼠ベルグタイの顔もあった。
チルゲイはこれを巧みに管理して、黒鉄牛をおおいに感心させた。兵はいつの間にか二千騎を数えるまでになった。
ある日、ナユテが密かに言うには、
「機は近いぞ。三日後、かの地に濃霧が発生するだろう」
「おお、いよいよだな。飛生鼠を走らせてギィたちに伝えよう」
ジュゾウを去らせたあと、チルゲイとナユテは神妙な顔を作って黒鉄牛のもとを訪れた。
「おお、チルチル。どうかしたのか?」
「一大事でございます。ヤクマン部のムジカが、ギィ様に宣戦したとのこと。我らも直ちに呼応して軍を興さなければなりません」
黒鉄牛はおおいに動揺する。戦といえば盤天竜ハレルヤのあとについて見物していたに過ぎない。ナユテが宥めて言うには、
「心配は要りません。すでに準備は整い、諸々の合図も定まっています。バラウン様は堂々となさっていればよろしいのです」
「そ、そうか。それで……」
「決戦の地は東方のバウルン平原です。四日後の朝、約会することになっております」
黒鉄牛は眉間に皺を寄せて呟く。
「バウルン平原? 聞いたことがあるような……」
チルゲイは内心ほくそ笑みつつ、
「私に一計がございます。この策が成れば必ずやギィ様のお褒めに与ろうかと存じます」
「策があるのか。それは……」
「ヤクマン軍はおそらく夜半に移動して、途中カラバルを通ります。そこで我らは先んじてそこに兵を伏せておくのです。敵もよもや決戦の前に襲われるとは夢にも思いますまい」
黒鉄牛はやはり瞠目して、
「そ、それは卑劣なのではないか」
問えば答えて、
「用兵に卑劣も邪道もありません。『用兵はもとより道にあらず』とは古人も謂うところ。我が人衆の命運は、バラウン様次第ですぞ」
「そ、そうか? ではチルチルの策を採ろう」
にやりと笑うと、
「名将の決断です! さあさあ、カラバルへ向かいましょう」
かくしてソラを先頭に兵を進めて、予定に違わず到着した。が、実はそこはカラバルではなく例のケルテゲイ・ハルハであった。カラバルと同様に伏兵には絶好の地勢。
神道子の予告どおり、辺りには霧が漂いはじめている。兵を伏せ終わるころには視界はすっかり閉ざされた。すでに陽は地平の彼方に没している。黒鉄牛は俄かに不安になって尋ねた。
「霧が濃いようだが……」
「何をおっしゃいます。これぞ天佑、勝利は疑う余地もありません」
ナユテが言った。
「合図を確認してきます。『夜襲に友軍相討てば必ず敗れる』と申します。よく覚えておいてください」
何となく黒鉄牛は心がざわめいて、
「夜襲に友軍相討てば、必ず敗れる……」
首を傾げて繰り返す。チルゲイとナユテは互いに目配せして笑い合う。あとはことが起こるのを待つばかり。
次第に辺りは闇に沈み、目を凝らさねば己の手の先も見えぬほど。味方の所在も怪しく思えてくる。あまりにも静かで、まことに兵衆がいるとは思えない。