第一〇一回 ①
チルゲイ一たび聖医に託して病理を解明し
バラウン再び妙策に罹りて絶澗に動揺す
ジョルチとウリャンハタの軍議は滞りなく終了した。そこでチルゲイとナユテは、マシゲルの獅子ギィの相談に応えるべくこれを訪ねた。すなわち記憶を失ったバラウンの件である。チルゲイが言うには、
「案ずるな、案ずるな。さすがは聖医だ。良策を教わってきたぞ」
「おう、そうか!」
ギィは愁眉を開く。しかし制して言うには、
「喜ぶにはまだ早い。記憶が戻るとは限らぬ。ただやってみる価値はある」
ゴロが焦れて、
「前置きはいい。その策とはいったい……」
「あわてるな、あわてるな。アサンによれば、記憶を失ったのは何かとてつもない衝撃から己を守るためだろう、とこう言うわけだ」
「崖から転落したことか?」
ギィが尋ねれば、首を振って、
「それもあるだろうが、むしろそれは契機に過ぎぬ。それよりもその前に原因がある。心に大きな衝撃を受けて、その負荷から免れるために記憶を心奥に押し込めたのだ」
「それはもしかして……」
頷いて、
「そう、カラバルの失態だろう。己が謀略に嵌まったために有利に運んでいた戦が一転、大敗に繋がったのだ。おそらく離脱して逃走する間、そのことで己を責め続けたに違いない。その呵責に堪えきれず、崖から転落したときに過去を封印したのだ」
「おお、何という……」
ギィは言葉を失う。ゴロが身を乗り出して、
「経緯はわかった。それで君はどうしようというのだ」
傍らからナユテが話を引き取って言うには、
「カラバルを、再現(注1)する」
これには二人ともおおいに驚く。一方、チルゲイとナユテは目を輝かせて笑う。
「……しかし、どうやって?」
ギィの問いに答えて、チルゲイが言った。
「もちろん完全に再現する必要はない。それに近い状況を作る。バラウンの記憶はなくなったわけではない。封印されているだけだ。だからもっとも衝撃を受けた瞬間を演じてみせることで、すべてを憶い出すかもしれぬ」
「……とアサンが教えてくれたわけだ」
そうナユテがあとを続ける。ギィらは感心して、
「具体的にはどうすればよいだろう」
「すでに考えてある。これには私と神道子も行かねばならぬ。大カンの許可は得てある。明日にもここを発とうと思うが、かまわないか?」
「もとより私が嘱んだことだ。君たちこそこんなことでアイルを離れてもよいのか?」
するとチルゲイは呵々大笑して、
「私はいつも飛び出しては好きなことをしているからな。大カンも慣れたものだ」
ナユテも莞爾と笑って、
「私は一介の卜人、公務に就いているわけではない」
「だが神道子よ。君のあの気丈な夫人は承知したのか?」
揶揄えば、満座は笑いに包まれる。翌日、四人はうち揃って義君インジャに挨拶に赴く。インジャは話を聞くと、
「バラウン殿の記憶が戻ることを祈っています」
そう言って彼らを引き止め、送別の宴を張った。数多の好漢がやってきて、別れを惜しんだ。席上、飛生鼠ジュゾウが言った。
「俺もまた南原へ行かねばならぬ。途中まで同行してよいか」
もちろん快諾される。チルゲイが言うには、
「それならば君にも助力してもらいたいが、どうだろう」
インジャが鷹揚に頷いて、
「獅子殿のお役に立つなら、気にせずに使えばいい」
ジュゾウに異存はない。またセイネンに対しても、
「君にもひとつ嘱みたいことがあるのだが」
「何だ?」
またややこしいことを言いだすのではないかと身構えつつ尋ねると、
「紅袍軍を借りられないか」
「何を言うか。ハーンの近衛軍だぞ。それは無理な話だ」
するとインジャが、
「かまわぬ。連れていくがいい。ついでに参謀たる君の眼で南原を視察してきてもらいたい」
結局、セイネンも加わって、一行は翌日出発した。ギィを先頭に、ゴロ、チルゲイ、ナユテ、セイネン、ジュゾウ、そして紅袍軍五百騎があとに続く。
(注1)【カラバルを、再現】第三 七回③、第三 八回③および第三 八回④を参照のこと。