第九 八回 ④
インジャ四頭豹を怕れて奇人に諮り
ギィ盤天竜を迎えて故旧を索む
ギィは、あとをゴロに託してゲルに戻った。アンチャイが迎えたが、その思いつめた表情にはっとすると、
「どうしました」
力なく答えて言うには、
「神道子の占卜(注1)が的中したようだ。……バラウンはダルシェにある」
アンチャイは大きな眼をさらに見開いて言葉を失う。漸く息を調えると、
「まさか、バラウン殿が魔軍にクルベイを襲わせたのですか?」
「判らぬ。……ともかく確かめねばならん」
そう呟くと、じっとアンチャイの宝珠のごとき瞳を見つめる。応じて莞爾と笑って言うには、
「ハーンのお考えになっていることは解りました。存分にされるとよいでしょう。私には止めることなどできません」
ギィは愁眉を開く。
「ありがたい。俺は、バラウンが背くとはどうしても思えぬ」
翌日、諸将を集めて言うには、
「ダルシェに、行こうと思う」
コルブがおおいに驚いて、
「いまだ魔軍を攻める力はございません。ここは遺憾ながら……」
「違う。何か勘違いしているな。俺は『行く』と言ったのだ。『攻める』などとはひと言も言ってない」
諸将はさらに愕然として、一斉にこれを諫める。
「静まれ!」
一喝すれば、たちまち喧騒は収まる。ギィは告げて言った。
「蓋天才と迅矢鏃に留守は委せる。赫彗星に同行してもらおう」
するとコルブがまた反対して言うには、
「よもやたった二人で行くのですか? せめて侍衛軍を五百騎ほど伴われては……」
それを中途で遮って、
「俺は戦をしにいくわけではない。兵など連れていけば警戒されるだけだ」
みなで代わる代わる諫めたが、ことごとく撥ねつける。また傍らのアンチャイがひと言も発しなかったこともあり、漸く諫言は止んだ。
「ひと月。……ひと月だけ俺にくれ。それで戻らなければ、人衆を挙げてジョルチン・ハーンに投じるがいい」
「ジョルチ部、ですか?」
ウチンの問いに答えて、
「そうだ。ジョルチ部は義君インジャの治下にある。ハトンの実家(注2)でもある。快く受け容れられるであろう。我が盟友、ヒィ・チノのナルモント部は遠きに過ぎ、ムジカのヤクマン部は政情殆うい。だが案ずるな。ひと月以内に必ず戻る」
二人の好漢は早速旅装を整えて、翌日には出立した。ダルシェを索めて広大な平原に繰り出す。ひとまず魔軍が去ったと見られる西南を指して駆ける。
ギィは刻限をひと月としたが、どこにいるか判らぬダルシェを探すのは至難の業である。ときどき出合う牧民に尋ねつつ、来る日も来る日も駆け続けた。
途中、ソラはふと尋ねて、
「ハーンはなぜ宿将ではなく、俺を伴われたのですか」
ふっと笑うと答えて、
「赫彗星はダルシェと縁がある。決して福ある縁ではなかったかもしれぬが、君と一緒ならダルシェに遇える気がしたのだ。それに君を二度も赤子のごとくあしらった盤天竜とかいう猛将にも興味がある」
ソラは恥ずかしくなって面を伏せる。
「ははは、別に赫彗星を非難しているわけではない。さあ、すでに数日が過ぎた。ゆっくりはしてられぬ」
からからと笑って鞭を振るう。ソラはあわててあとを追う。
そうしてさらに数日が経つ。野を越え、丘を越え、魔軍の影を探し索める。そしてついにある日のこと。
「ハーン、あれを!」
ソラが目を見開いて彼方を指す。ギィはおもむろに頭を廻らせると、
「ほう。ついに捉えたか」
視界の果てに数十の騎兵が行くのが見える。その旗は紛れもなくダルシェのもの。おそらくは哨戒兵。これこそダルシェの勢力圏に入った証左である。
「……行くぞ」
ギィが言い、ソラはごくりと唾を呑み込む。先方も彼らに気づいたらしく、馬首を廻らして馳せ来たる。ギィらは馬を止め、拱手してこれを迎える。
「お前ら、どこから来た。答えよ!」
「怪しいものではございません。ダルシェのアイルを訪ねて参りました。盤天竜様にお取り次ぎください」
温色を湛えて恭しく一礼する。
「我らを訪ねてきただと?」
その顔には、驚きと疑いの色が一度に表れる。ギィは莞爾として答えて、
「はい。盤天竜様の旧知のものでございます。お取り次ぎくだされば異心なきことが判りましょう」
哨戒兵たちは小声で話し合っていたが、やがて言った。
「よし、一応報せよう。名を名乗れ」
「アルスランと申します。きっと盤天竜様はご存知のはずです」
「獅子とはまた仰々しい名だな。まあよい、ついてこい」
二人はあとについて駆ける。やがてアイルを望むところで留められると、一騎が列を離れてゲル群に駆け込む。
報告を受けたハレルヤは、訝しく思ってしばし考え込む。
「獅子だと? ふうむ、まさかとは思うが……。よし、ここへ通せ。失礼のないようにな」
さてこの両雄の邂逅から忘我の好漢は旧家に復し、俊傑の交歓は一朝に成るといった次第となるわけだが、まさしく真の英主は旧悪に拘らず、むしろ旧好を忘れぬもの。果たしてギィはバラウンに巡り会えるだろうか。それは次回で。
(注1)【神道子の占卜】ギィの依頼でバラウンの所在を占ったこと。第四 七回③参照。
(注2)【ハトンの実家】アンチャイは、ジョルチ部ベルダイ氏キハリ家の出自である。