第九 八回 ③
インジャ四頭豹を怕れて奇人に諮り
ギィ盤天竜を迎えて故旧を索む
敵は恐るべき速さで迫る。その旗は紛れもなく魔軍のもの。兵力はおよそ二千ほどか。しかし牧民が大軍と見誤ったのも無理はない。怒涛のごとく押し寄せる敵の圧力は二千騎のそれではない。手勢はまだ数百を数えるのみ。
ソラはテンゲリを仰いで、
「俺はつくづくダルシェに祟られるらしい」
何とか気を取り直すと指示をして、
「固まってときを稼げ! 少しでも人衆を逃がすのだ!」
しかし兵は早くも敵の勢いに呑まれている様子。もとよりソラ自身も抵抗は徒労に終わることを自覚していた。脆弱ながら何とか陣形を整えると、敢然と突撃の命を下す。数百騎は半ば自暴自棄になって突進した。
ダルシェ軍の先頭にあったのは、奇しくも盤天竜ハレルヤ。にやりと笑いながら黒鉄牛を顧みて言うには、
「ほほう。突撃してきたぞ」
すると黒鉄牛は何かに気づいて敵を指す。
「将軍! あれをご覧ください。先頭に見えるのは……」
応じて目を凝らす。そして歓声を挙げると、
「おお、あれはいつぞやの礫公ではないか。マシゲルにいたとは」
ソラもまたハレルヤの姿を認めていた。その巨躯は忘れたくとも忘れようがない。思わず声を挙げて、
「盤天竜か! ますます絶望的だ」
一方、ハレルヤは嬉しそうに笑うと呟いて、
「どれ、遊んでやるか」
大刀を高々と掲げて、大音声に言うには、
「礫公! 久々だな。かかってこい!」
ソラは激昂して挑みかかる。腰の嚢に手を忍ばせると、やぁっと裂帛の気合いを込めて一の礫を飛ばす。
しかしやはり、かんと虚しい音とともに弾き飛ばされる。
「進歩のない奴だ。ほかの芸はないのか」
「ちぃっ!」
躍起になって礫を投げたが、ひとつとして中たらない。
「がっかりしたぞ、礫公。図らずもお前に遇えて喜んだのだがな」
そう言いつつ一気に間合いを詰めて大刀を振り下ろす。ソラは小さく悲鳴を挙げると、やっとのことでその一撃を躱す。
と同時に両軍は激突した。と言っても実はクルベイ軍が呑み込まれ、蹴散らされただけである。瞬く間にクルベイの兵は数を減じ、半刻もせぬ間にほぼ全滅した。
独り赫彗星が踏ん張っていたが、彼も盤天竜に弄ばれるばかり。必死になればなるほど実力の差は歴然となる。
「お前はまだ俺には勝てん」
ハレルヤがさっと大刀を翻す。
「あっ!」
次の瞬間、ソラの手から得物が失われていた。
「もっと強くなってから来い」
呵々大笑して胸を反らす。ソラは屈辱に震えつつ、為す術もなく馬首を転じる。ダルシェ軍は逃げる人衆を追って殺戮、略奪をほしいままにすると、大量の家畜を奪って何処かへと去っていった。
ソラは疲れた身体を馬に預けて駆け続け、何とかオルドへ転がり込んだ。あわてて迎えたギィに平伏して謝罪する。ギィはこれを慰めて言った。
「敵は魔軍ではないか。やむをえん」
ソラは言葉もなく泣き崩れる。
辛くも危地を脱してきた人衆が、次々と収容される。被害は甚大であり、多くのものが戻らなかった。ギィは諸将とともに沈痛な面持ちで彼らを見て回ったが、卒かに一人の男が立ち上がって言うには、
「僭越ながらハーンに申し上げたきことがございます」
「何だ? 何でも言ってみよ」
その男も負傷して肩から血を流している。言うには、
「信じられぬことですが……。魔軍の中に、バラウン様をお見かけしました」
ギィはおおいに驚く。
「真か!!」
「はい。敵の大将に随従していたのは、間違いなくバラウン様です」
言い終わるとよろよろと座り込む。ギィはしばし黙考すると周囲を見わたして、
「ほかにもバラウンの姿を見たものはあるか!」
問えば、恐る恐る数人が手を挙げる。傍らにいたコルブの顔色が変わる。
「あの阿呆め、かつて戦を誤った上に魔軍を導くとは……。どこまでハーンに背けば気がすむのだ!」
「待て。何かの間違いかもしれぬ」
「まだバラウンを信じるとおっしゃるのですか!」
ギィは答えない。やむなくコルブも口を噤む。