第九 八回 ②
インジャ四頭豹を怕れて奇人に諮り
ギィ盤天竜を迎えて故旧を索む
そのチルゲイはというと、東原で神行公キセイから情報を得ると、あわてて西帰の途に就いた。一散に駆けてジョルチ部に立ち寄る。そしてここ一年の政変について喚き散らしたが、サノウが中途で制して、
「その件についてはジュゾウから聞いた」
奇人はがっかりして、
「何だ、知っていたのか。それにしてもあの亜喪神ムカリが一万騎を擁するとなると、こいつは難敵だぞ」
ジョルチの諸将は虚を衝かれる。なぜなら彼らは亜喪神を実際に見たことがなかったから、あまり重視していなかったのである。セイネンが言った。
「それよりも四頭豹とどう戦うか……」
「いや、亜喪神を警戒しろ」
チルゲイはむきになって答えた途端に笑いだす。サノウが不興も顕に言った。
「何がおかしい」
「ははは、互いに異なる敵人の恐ろしさを知っているなら、それを共有したほうが賢明だ。どちらが難敵かを言い争っているときではなかった」
それを聞いて諸将は力が脱ける。インジャも笑って、
「奇人殿の言うとおりだ。敵は智に四頭豹、武に亜喪神があるということだ。我々は互いに足りないところを補って戦に臨まねばなるまい」
サノウがますます険しい顔で、
「まことに亜喪神がその父たる喪神鬼イシャンほどの猛将ならば、ことは容易ではありません。彼を先駆けに十万の兵が一群となって寄せ来たらば……」
「おっと、それはどうかな?」
発言を遮ったチルゲイにみなの注目が集まる。
「奇人殿、どうかされたか?」
インジャに答えて言うには、
「軍師は『一群となって』と言ったが、実のところヤクマンの八旗軍はひとつにはなれますまい」
「どういうことだ」
セイネンが問う。あわてるなと言わんばかりに手を振ると、
「八旗のうち幾人かの将領は四頭豹に心服するものではない。以前、ジョナン氏の超世傑ムジカについてお話ししたことがあるかもしれません。彼は四頭豹の奸智を警戒していましたが、止める術もないままやむなく八旗に組み込まれたそうです。つまり兵制の上では四頭豹独りが十万騎を自在に操れるように見えますが、内実はそうとは限らないのです」
さらにキセイから聞いた話をもとに、四頭豹に与せぬものとして、神風将軍アステルノ、紅火将軍キレカ、碧水将軍オラルの名を挙げる。
「この四人はいずれ勝るとも劣らぬ好漢。心ならずも従っているものばかりだそうです。彼らが八旗に任命されたのも、四頭豹自身がそれを知っていて懐柔と牽制の意を込めたものと思われます」
おうと座はどよめく。インジャが言うには、
「奇人殿はヤクマンの内情に通じている。心強いかぎりだ」
「いえ、私などよりも神道子のほうが事理に通暁しております。そこで提案があります。来年の出師に備えて、合同の軍議を開きましょう」
インジャは即座に賛成して言った。
「すばらしい。日程はウリャンハタのカンに合わせよう」
「では秋にはタムヤで相見えましょう」
チルゲイは一泊したのち西原へ帰っていったが、この話もここまでにする。
ここで目を南方に転じることにする。マシゲル部は獅子マルナテク・ギィの善政の下、かつてのタロト部の牧地でじっと力を蓄えてきた。敗戦(注1)以来六年、家畜の数は殖え、漸く軍備も整ってきた。
これを佐けるのは、外には蓋天才ゴロ・セチェン、内には瓊朱雀アンチャイ・ハトン。兵を率いるは右に迅矢鏃コルブ、左に客将たる赫彗星ソラ。内廷を治める輔は賢夫人ウチン、赫大虫ハリンといった陣容。
かつての強盛にはまだ及ばないが、マシゲルはすっかり安定を取り戻していた。しかし「好事魔多し」と謂うとおり、彼らは再び災厄に遭うことになる。
心地好い夏のある日のことである。それはクルベイ氏のアイルを突然襲った。クルベイはかつてバラウンジャルガルが治めていた氏族である。バラウン出奔後はしばらくギィの直轄下にあったが、今はソラに預けられていた。
一人の牧民が羊を追っていたところ、地平の彼方に濛々と砂塵の舞い上がるのを見つけた。訝しく思って眺めているうちに砂塵はどんどん高くなり、ついにその中から黒い一団が現れた。それは徐々に形を顕す。牧民はみるみる青ざめた。
「て、敵襲だ!」
あわててアイルに戻ってソラのゲルに駈け込む。報を聞いたソラもさっと顔色を変える。
「何だと!? どこの兵だ」
「判りません。しかし地を埋め尽くすほどの大軍です!」
「早馬をオルドへ。人衆は退避! 軍装を整えたものから出陣!」
すばやく命を下して、真紅の鎧に身を包む。剣を把んで飛び出すと、
「急げ! アイルを守れ!」
叫びながら彗孛に跨がって駆けだす。戦に出ないものは家畜を追って逃げはじめる。ソラの周囲にぽつぽつと騎兵が集まってくる。敵影を望んで、ソラは我が目を疑った。思わず叫んで言った。
「あれはっ! 魔軍……!?」
(注1)【敗戦】カラバルの同士討ちによって、ムジカに敗れたこと。第三 九回①参照。