第九 七回 ②
チルゲイ東原を訪れて神箭将に策を語り
ナユテ書簡に託して飛虎将に命を伝える
かつてのヒィは才気が逸りすぎて軽率なところもあったが、ハーンとして数歳、以前とは見違えるほどの成長である。
それも北伐の失敗に学んだからであろう。ヒィ・チノは同じ過ちを二度は犯さない。英傑と称するに相応しい恐るべき才幹である。
またおもえらく、目を転じて中原のジョルチン・ハーンはと云えば、こちらは生まれながらの名君。新たに学ぶべきものはなく、すでに資質は備わっている。よってインジャは過ちを犯さない。
「……はあ、英雄だな」
チルゲイは思わず呟く。ナハンコルジがこれを聞きつけて、
「何か言ったか?」
「いや、何でもない。そうだ、ナルモントの諸将に癲叫子の馬頭琴を聴かせようではないか」
そう提案されて、ドクトはやれやれしかたないといった風を装いつつも、内心の喜びは隠しきれない。
得物を取り出して奏でる曲はもちろん「奔馬と戯れる」。ナオルらが唱和しておおいに喝采を浴びる。こうして暗くなるまで宴を楽しんだが、くどくどしい話は抜きにする。
翌日、ナオルとチルゲイはオルドに召喚された。ヒィ・チノのほかにはショルコウとキセイがいるだけだった。対座すると早速言うには、
「河西の情勢を詳しく訊きたい」
「というと?」
「ジョルチとウリャンハタが会盟したことは知っている。俺が知りたいのは南原、すなわちヤクマン部の動向だ」
チルゲイは意外そうな顔をして、
「ムジカらとは往来がないのか?」
「だいぶ前にマシゲルの獅子から使者が来た。それが最後だ」
「ギィは何と?」
すると難しい顔で黙り込む。やがて口を開くと、
「トオレベ・ウルチが梁帝から英王に封じられたのは知っているな」
答えたのはナオル。
「はい。でもそれは五年も前のことです」
ヒィは軽く頷くと、
「そのとき梁帝から公主が下賜された。これがとんでもない妖婦らしい」
そして例の赫彗星ソラの一件を語れば、二人は唖然とする。
「……それ以降、ムジカからもギィからも音信が途絶えている。ゴロの予測では、ことはこれで終わらぬとのことだったが……」
「マシゲルの使者が来たのはいつごろですか?」
「昨年の春だ」
しかし、ナオルとチルゲイも詳しいことは知らなかった。恐縮する二人を制すると、ヒィは笑みを浮かべて言った。
「以前であれば自ら中原に赴くのだが、今はそうもいかぬ」
「当然です」
思わずショルコウが口を挟む。キセイが小さく手を挙げて、
「私が参りましょう。直接ムジカ殿に会って、その後の顛末を聞いてきます」
「そうしてくれ」
応じて神行公はすぐに席を立つ。それを見送るとヒィ・チノは鋭い眼でチルゲイを睨んで言った。
「ところでチルゲイ。何を企んで東原まで来た。神都を探るついで、というわけではあるまい」
人に会うごとに「何を企んでいる」と訊かれがちな奇人は呵々大笑して、
「さすがに神箭将は欺けぬな。そのとおり、実はひとつ提案があって参った」
「提案?」
ずいと身を乗り出すと、指を立てて言うには、
「うむ。君は『遠交近攻』なる言葉を知っているか?」
「知っているとも。遠くと交わり近くを攻める策であろう」
チルゲイは手を叩いて喜ぶと、
「いかにも! かつてはヒスワがミクケルと結んで、あわや中原を制覇するところであった。君を苦しめた神都と北原の同盟も同じだ。近隣の敵に勝つために遠交近攻がいかに有効な戦略か、身をもって解っているだろう。そこで私は君にこれを勧めに来たというわけさ」
「すでにお前の勧めで、ムジカ、ギィと『チェウゲン・チラウンの盟』(注1)を結んでいるではないか」
激しく首を振ると答えて言うには、
「それはそれでけっこうだが、彼らは南原にいる。当面の敵である神都やセペートと戦うには利が薄かろう」
ヒィは黙って頷く。チルゲイは満面に笑みを浮かべると、
「そこでだ、君はジョルチ部と結べ。神都を後背から牽制することになる。後顧の憂いなく北伐に行けるぞ」
(注1)【チェウゲン・チラウンの盟】ヒィ・チノ、ムジカ、ギィが結んだ盟友の誓いのこと。第四 一回②参照。