第九 五回 ①
トオレベ塞外に初めて皇太子を立て
サノウ宴筵に努めて赤心王を諫む
さて梁公主と四頭豹の謀略は、ついに実を結んだ。三子ダマンは刑死、長子イハトゥは叛乱に追い込まれてケルド台地で殺された。
それを機にハーンの公子は大量に粛清され、のみならずハーンを唆して、四頭豹は多大な権限を得ることに成功した。すなわち丞相として政事を壟断できるようになったのである。
軍制も改編された。従来の三軍を廃して、新たに「八旗軍」が置かれた。これにより七卿の一人、ダサンエンの権勢は大幅に縮小された。
代わって四頭豹が擡頭し、ヤクマン軍十余万を自在に動かす力を得た。七卿はおろかハーンすらも凌駕する権能が、独り四頭豹に集中したのである。
超世傑ムジカら四人の好漢は、憤りを感じつつも抗う術はなく、気づけば八旗軍に組み込まれていた。たしかに名誉は得たが、様々な責務も課せらることになった。神風将軍アステルノなどは憤懣やる方なく、
「勅命と云うが、結局は四頭豹の命令ではないか。なぜ俺が彼奴のためにはたらかねばならぬのだ」
そう吐き捨てたが、彼とて大勢をいかんともしがたい。諸将は互いに軽挙を戒め、己を保つほかない有様。
年が明けて最初の大会議が開かれた。このところ大会議のたびに意表を衝かれるので、好漢たちは陰鬱な気分でこれに臨んだ。ひととおり新年を祝うと、丞相ドルベン・トルゲが進み出て言った。
「これよりハーンから重大な発表がある。心して聴け」
そら来た、と緊張していると、おもむろにハーンは口を開いて、
「先年、不肖の息子どもが騒ぎを為して、部族の和を乱したことは、おおいに遺憾である。かかる騒乱を未然に防ぎ、無用の争いが起こらぬよう、中華の制に倣って皇太子を立てようと思う」
座にあるものは等しく息を呑んだ。そもそも草原の部族は、その大小を問わずハーンの選出をクリルタイに由るのが慣習である。かつて皇太子なるものが存在したことはなく、草原の民にとってはまさに驚天動地の怪事であった。
唖然とした諸将も、次の瞬間にはそれぞれ疑義の声を挙げる。トオレベ・ウルチはみるみる不快を顕す。そこでドルベン・トルゲが一喝して、
「静まれ! ハーンのご決定である」
やむなくみな口を閉ざすが、不満は依然として燻り続ける。委細かまわず宣言して言うには、
「皇太子は、ジャンクイである。同時に梁公主をハトンに冊立する。この決定に関して異を唱えるものはことごとく重刑に処す」
座はしんと静まりかえり、やがて絶望の溜息が広がる。恐れていたことが現実になったのである。
好漢諸将は、公主がジャンクイをハーンにするのではないかと危惧していたが、実のところ年端の行かぬ幼子を即位させる手立てなど皆無であるとも思っていた。誰一人として皇太子に指名するなど思いも寄らなかった。
慣習に反すると声を挙げるのは容易だったが、周囲は衛兵に囲まれている。そんなことをすればたちまち命を失うのは目に見えていた。ここでも四頭豹に先んじられて、ただただ悔やむほかない。
以後、ジャンクイは「ジャンクイ・ホンタイジ」と敬称されることになる。この「ホンタイジ」は草原の言葉ではなく、中華の「皇太子」の音を借用したものである。そもそも皇太子の概念自体がないのだから当然のこと。
それを言うなら丞相も同様である。丞相の称を採っていたのは、広い草原で僅かにウリャンハタ部があるだけである。
例えばジョルチ部の官制の頂点は断事官であり、獬豸軍師サノウがその任に就いている。ジュレン部(神都)では閣卿、クル・ジョルチ部では上卿である。
ナルモント部に至ってはそうした官制すらなく、ハーンたる神箭将ヒィ・チノが内政をも総覧していた。ナルモント部は軍制は整備されているが、内政の機構はいまだないのである。
余談はさておき、好漢たちは四頭豹に翻弄され続けていた。人衆のうちには不平を表すものがあとを絶たなかったが、間者がこれを摘発したので次第に鎮静に向かった。
公主はついにハトンの地位に登り詰めて殊の外喜んだ。密かに四頭豹を召し出して言うには、
「さすがは草原一のセチェン。江魁が皇太子になれたのは貴殿のおかげです」
「ふふふ、そして公主はハトンです……」
「そう、私はハトン。いずれハーンの母になります。そうなれば貴殿はますます栄華を極めるでしょう。なぜなら……」
公主の頬にすっと赤みが差す。
「貴殿こそ江魁のまことの父親なのですから」
四頭豹は笑いながらそれを制して、
「迂闊なことを口にしてはいけません。テンゲリには目、エトゥゲンには耳がございます」
「もうテンゲリもエトゥゲンも恐れませんわ。私と貴殿の江魁が皇太子になったのですもの……。ああ、私の剣よ……」
二人は常にもまして激しく雲雨の情(注1)を結んだのであるが、くどくどしい話は抜きにする。
(注1)【雲雨の情】男女の交情。性交。