第九 四回 ③
バルマン地利を失いて馬防柵に窮し
ドルベン主命を拝して八旗軍を置く
叛乱軍は焦燥の色を濃くした。そもそも人の堪えがたきは飢えよりも渇きである。後背の両道より攻め下ることも検討されたが、こちらはさらに防備が固められていた。為す術もないまま、包囲の輪はじわじわと狭められていく。
士気は目に見えて低下し、全体に疲労感が漂う。三日目の夜には脱走するものが現れた。軍馬の衰えはなお激しく、イハトゥは一部の騎乗に堪えぬ馬を潰して、その血を兵に分け与えた。
「座していても死を待つばかり。それどころか兵卒の暴動すら起きかねません。ここは不退転の決意で突撃を敢行するほかありません」
バルマンも万策尽きてそう言うのがやっと。イハトゥも同意して、全軍に布告して言った。
「今夜、全軍をもって重囲を突破する」
疲れきった叛乱軍は最後の気力を振り絞って、この一撃に賭けた。馬の口に枚を銜ませると、斜面中腹に整列して待機する。本営の篝火は無論そのままである。
ぶうん、と闇を裂いて鏑矢の音が鳴りわたると、イハトゥ軍八千騎は怒涛のごとく斜面を下った。先頭には勇将バルマン、得物の槍を高く掲げて疾駆する。夜襲に気づいた敵陣から、怒号とともに矢が放たれるが、たいした量ではない。
「柵を引き倒せ!」
バルマンの命に応じて、将兵は一斉に鉤鎌を投げる。柵に引っ掛けると反転して次々にこれを倒していく。激しく抵抗されると予想していたが、思いのほか手応えがない。
「今だ! 進め、進め!」
八千騎は流水が堰を切ったように雪崩れ込む。三重になった馬防柵を躍起になって引き抜き、奥へ奥へと駆ける。
ふとバルマンは不安になる。
「何だ、あまりに手応えがなさすぎる……」
行けども行けども散発的な反抗があるばかりで、あれだけいた大軍が影も形も見えない。
「謀られたか? 止まれ、止まれ!」
恐怖に駆られて全軍を停止させる。と、視界が卒かに明るくなる。度肝を抜かれてよくよく見れば、いつの間にか夥しい数の炬火に囲まれている。
「あっ!」
イハトゥもバルマンも動転して我を忘れる。次の瞬間、矢が驟雨のごとく降り注いだ。
「しまった、敵の奸計だ!」
叫んだもののどうしてよいやらわからず右往左往するばかり。兵卒に至っては混乱のあまり彼我の判別も着かぬ有様。どちらを見ても敵、敵、敵。
翼でも持たぬかぎり逃れる術とてない。追い詰められた狩りの獲物のごとく次々に討ちとられていく。バルマンはやっと手近の数十騎を集めると、何とか生きているイハトゥに言った。
「包囲の一角に突っ込みましょう。とにかくここを逃れるのが先決。逃げて再起を図りましょう」
「嘱む!」
小さく固まると、薄闇に透かして敵陣の手薄な個所を探す。次いで猛然と咆哮を挙げて突撃する。たちまちのうちに味方の騎兵は数を減じる。バルマンはさすがに真の驍将、群がる敵を突き伏せ、叩き落とし、徐々に前進する。
何とか重囲を突破したと思ったころ、漸く東の空が白くなりはじめたことに気づく。周りはすでに十数騎を数えるのみとなっていた。ほっとした瞬間、鋭い声がかかる。
「凡将、どこへ行く」
はっと声の主を探せば、およそ数百騎の軍勢が現れる。明るくなりゆく空の下に浮かび上がったものは誰かといえば、これぞテンゲリをも欺く奸智の怪人、四頭豹ドルベン・トルゲ。
「待ちかねたぞ。思ったよりここまで来るのにときがかかったな」
バルマンの身体からどっと力が脱ける。すべてこのセチェン(知恵者)の掌の上で踊らされていたに過ぎないことを知ったからである。
「ふふふ、諦めたか。ものども、謀叛人を捕らえよ!」
あっと言う間にイハトゥたちは縄をかけられて捕虜となり、本営に連行される。ダサンエンはおおいに喜んで、
「おお、軍師。大勝利だぞ。我がほうの損害は軽微だ。これも軍師の妙策があったればこそだ」
「たいしたことではありません。むしろ敵人が凡庸だっただけです」
イハトゥらはぐっと唇を噛んで嘲弄に堪える。
「軍師、此奴らの処断だが……」
「叛乱は重罪、裁可を仰ぐ必要はありません。ここで首を刎ねるべきです」
間髪入れず答えれば、バルマンがいきなり喚いて、
「この佞臣め! お前はヤクマン部を滅ぼす気か! 我が部族は、お前のために牧地をすべて失うだろう」
冷ややかな目でこれを見据えると、
「何たる呪詛を……。将軍、すぐに刑の執行を」
「うむ、わ、わかった……」
イハトゥをはじめ叛乱に荷担した諸将はその場で処刑された。三軍は合流して意気揚々と凱旋した。この報は瞬く間に全土を駆け巡り、心あるものは等しく胸を痛めた。