第九 四回 ②
バルマン地利を失いて馬防柵に窮し
ドルベン主命を拝して八旗軍を置く
呆然と眺めていたバルマンは突然思い当たって、あっと叫ぶ。
「どうした?」
「……あ、あれは騎兵の突撃を止めるための柵ではありませんか?」
イハトゥはぎょっとして、
「何だと? そんなことをしたら向こうとて動けぬではないか」
「動けぬのではなく、動かぬつもりでは……」
さすがは名将と謳われたバルマンである。たちまち四頭豹の考えを見抜いたが、すでに遅い。
そのころ四頭豹はダサンエンに向かって、
「敵が攻めてきても、柵を出て迎え撃ってはなりません。矢を射かけて牽制し、柵を引き倒そうと寄ってきたところを長槍で突くのです。柵を避けて回り込もうとしたら、左右の騎兵を当ててください」
「ははあ。軍師の進言を容れて前から調練していたが、このことだったか。調練は万全ゆえそれは問題ないが……」
半信半疑の様子を見て、説いて言うには、
「これは馬防柵と呼ばれるもので、本来は騎兵の少ない国が防禦のために発明したものです。その威力はまもなく判るでしょう」
「…………」
なぜこの男は誰も知らぬようなことを知っているのだろう、なぜ誰も思いもつかぬようなことを思いつくのだろう、とダサンエンは気味悪く思って四頭豹を盗み見る。と、まるでそれを察したかのように、
「バルマンは古い型の名将。よって互いに騎兵を率いて広大な平原で雌雄を決する、となればかなり手強いでしょう。しかしすでにそうした時世ではないのです。これからはそれだけでは勝てません」
そしてなぜか一瞬凄まじい形相になると、聞こえるか聞こえないかの小声で、
「私はそれを、かつて身をもって学んだのです」
「……そ、そうか」
やっとのことで答えると、四頭豹はすでにもとの表情。言うには、
「そろそろ堪りかねて撃って出てくるころです。ケルド台地にはひとつ重大な欠点があります。ゆえにじっとしていることはできぬはずです」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、敵の一軍が動きだすのが見えた。バルマン率いる騎兵、およそ三千。たちまち喊声と金鼓の音が轟きわたる。
バルマンはまっしぐらに突っ込んでくる。弓手はそれを十分に引きつけてから、一斉に矢を放つ。敵騎はばたばたと餌食となる。
が、バルマンは飛来する矢を片端から叩き落としつつ馬防柵に迫る。今度は槍兵の出番である。柵によって足を止められた馬を容赦なく突けば、倒れ、暴れ、おおいに乱れる。
「ちぃっ! 退け、退け!」
バルマンは為す術もなく撤退する。緑軍はわっと歓声を挙げる。本営に戻ったバルマンは、報告して言った。
「やはり敵は柵の内側にて守りを固める肚のようです。あの柵を何とかせぬかぎり戦になりませぬ」
「柵を避けて回り込んではどうだろう?」
「それでは敵に側面を晒さねばなりません。そこを衝かれれば崩れます。もとより敵のほうが数において勝っているのです」
「では手の打ちようがないではないか!」
イハトゥが苛立って叫ぶ。
「方策を考えてみます。しばらくは陣を固めて動いてはなりません」
かくして戦線は一挙に膠着した。ダサンエンは四頭豹に尋ねて、
「たしかに敗れざる形勢にはなったが、ああして台地に籠もられたらこちらも手が出せぬではないか」
「ご心配には及びません。敵は早晩出てこざるをえないのです。夜襲の警戒を怠らぬようにしてください。柵をさらに増やし、二段、三段と連ねておきましょう」
そうこうするうちに台地の上では大事件が起こっていた。一人の兵卒が本営に駆け込んでくるなり、青ざめた顔で叫んだ。
「将軍! 水が、水が……」
「どうした、落ち着け」
「……泉に、毒が、……毒が投じられております!」
「何だと!?」
思わず腰を浮かす。バルマンがあわてて見に行けば、泉の周囲に人だかりができている。その輪の中で、今しも幾人かの兵が絶命するところであった。
顔はいずれも青黒く染まって醜く歪み、口からは何とも形容しがたい臭気を放つどろどろとした液体を吐いている。
「な、何ということだ! やられたわ……」
兵卒が不安そうに見ているのに気付くと、毅然として言うには、
「泉の水を飲んではならぬ! 全軍に伝えよ」
一人の兵が恐る恐る言うには、
「……し、しかし、それでは水がありません。どうすれば……」
「お前の憂えることではない! 余計なことを言えば軍令に照らして斬る!」
そう言い捨てて本営に還る。諸将は報告を聞いて愕然とする。そもそも高地に布陣するときは、まず水源を確保するのは当然のこと。最初は毒など入っていなかったのである。すなわち敵の間者が入り込んでいたことになる。
「水がなければ留まることなどできぬ。この状況を打破しなければ、居ながらにして窮するぞ」
イハトゥが言えば諸将はただ頷くばかり。バルマンは唇を噛むと進言して、
「夜襲をかけて突破しましょう」
ほかに良策もなかったので早速採用される。その夜、イハトゥらはほぼ全軍をもって夜襲を試みたが、これもすべて四頭豹の計算どおり、備えがあったため甚大な被害を出しただけで終わる。