第九 三回 ④
ダマン姦通に罪を得て権勢を虚しくし
イハトゥ凶報に算を乱して甲馬を列ぬ
バルマンはさらに続けて言った。
「兵を挙げ、奸臣どもを一掃するべきでございます」
これには度肝を抜かれて、
「挙兵じゃと!? 正気か」
「ここに至った以上、一刻の猶予もなりませぬ。速やかに全軍をもってオルドに向かい、その過ちを正すのが、唯一の嫡子、イハトゥ様の使命かと」
「ううむ……、確かに。善し、お前の言葉に順おう。五日後、オルドへ向けて進発する!」
一同おうと応えて出兵の準備にとりかかる。だが、この動きは四頭豹の予測のうちにあった。潜り込ませておいた間諜が、長躯してそれを伝える。四頭豹は呵々大笑すると、ハーンに拝謁を願って奏上するには、
「イハトゥ様、謀叛にございます」
トオレベ・ウルチは相次ぐ背信に声も出ず、うぐと唸ったきり昏倒してしまった。侍医があわてて宦官とともにこれを奥へ運ぶ。代わって命を下すのは、もちろん梁公主。
「ただちに三軍を出動させよ」
「ふふふ、すでに待機しております」
そうして意味ありげに目配せを交わす。
明朝、早くも緑、白、赤の三軍はダサンエンに率いられて発った。四頭豹ドルベン自ら軍師として従軍するほか、軍監小スイシの姿もある。コルスムス統べる侍衛軍はオルド警護のため残った。
同時に東方の各氏族に出兵を命じる使者が飛んだが、敵人の名は伏せられていた。約会して初めて敵がイハトゥであることが告げられたのである。諸将はおおいに驚き、また悔やんだがすでに退くこともできない。
イハトゥも檄文を発したが、一歩も二歩も遅かった。まさに「先んずればすなわち人を制し、後るればすなわち人に制せらる」といったところ。
イレキ氏族長、すなわち碧水将軍オラル・タイハンは静観するつもりであったが、勅使を迎えてやむなく兵を出した。が、その数は僅かに千騎。参集した諸将の中で、イハトゥ征伐を予期していたのはオラルただ独りだっただろう。
ともかく総勢五万に及ぶ大軍が一路東方を目指したのである。
一方、三軍が向かっていることすら知らぬイハトゥは、一万騎を揃えて援軍を待ったが一兵も現れない。そうこうするうちに討伐軍の存在を知っておおいに驚く。
「バルマン、我らの決起は読まれていたようだぞ」
「狼狽えなさるな。地の利を占めて、ときを稼ぐことです。やがて各地で呼応するものが現れるでしょう」
「う、うむ、では……」
「ケルド台地に陣を布きましょう」
その動きは斥候によって、ことごとく四頭豹の知るところとなった。軍議が開かれたが、言うには、
「ふふふ、バルマン将軍は希代の名将と伺っていましたが、何ほどのこともありませんな。ケルド台地とは」
ダサンエンが尋ねて、
「軍師には策があるのか」
「策も何も奴らは自ら死地に飛び込みましたぞ。労せずして勝てるでしょう」
呵々大笑するばかり。小スイシが咎めて言った。
「四頭豹殿、軍議の席上ですぞ」
「失敬。ともかく勝算はありますのでご心配なく」
そう言ってにやにやするばかり。四頭豹の策がいかなるものであるかは、のちに明らかになること。
さてアイルを飛び出して東に駆けるムジカは、中途にしてイハトゥが挙兵してしまったことを知り、臍を嚙んだ。また三軍が早くも動員されたこともわかったので、テンゲリを仰いで、
「テンゲリはヤクマン部を滅ぼそうとしているのか」
おおいに嘆じた。が、そうとなれば進むのは無益である。即座に踵を返す。延々駆けていくと、前方から大軍がやってくるのが見えたのであわてて留まる。
「あれは……」
ムジカは旗を見て愕然とした。何とそれは亜喪神ムカリのもの。およそ五千騎はいるだろう。
「もしやイハトゥ様征伐へ向かっているのか。三軍の対応の速さといい、亜喪神がここまで来ていることといい、やはり叛乱は四頭豹の読みどおりだったのだ。もし皁矮虎らに乗せられていたら、亜喪神の矛先は我らだっただろう。殆ういところであった。何と恐ろしい男だろう、ドルベン・トルゲという奴は!」
一心に駆けて戻ると、諸将に無念の報告をする。みな悄然としてうなだれる。イハトゥは完全に策に嵌まった。四頭豹の対応には隙がない。黙って僥倖に期待するよりほかない。
しかし戦は何が起こるか判らない。万にひとつ、叛乱軍が勝たぬとも限らない。まさしく追い込まれては黙っていられるはずもなく、野鼠もただでは捕まらぬといったところ。また「窮鼠猫を噛む」とも謂う。果たしてイハトゥの叛乱はいかなる決着を見るか。それは次回で。