第九 二回 ④
超世傑妄動を戒めてオンヌクドを遣わし
梁公主閨房に囁いてダマンを惑わす
夕刻、ダマンは後宮へと足を運んだ。すでにチンラウトが待っていたので、尋ねて言った。
「公主はどちらにいらっしゃる」
「これはこれは……。公主は奥でお待ちです」
「奥へはハーン以外入れぬはず。ここで待っているから、そうお伝え願いたい」
「そうおっしゃられるとは思っておりましたが、重要な話なので余人に聞かれることのなきよう、中へお通しせよとの仰せでございます」
渋るダマンの背を押すようにして奥へ導き入れる。
初めて踏み込む後宮に緊張しつつ進めば、辺りには香木を焚く香りに混じってどことなく女の匂いが漂い、胸が詰まりそうなほど。濃密な空気に眩暈すら覚えそうになる。
「さあ、こちらでございます」
ダマンは我に返ると、ぼんやりしていたのを悟られまいと咳払いしてあとに続く。戸張を幾つかくぐれば芳香はいよいよ強く、ともすれば頭に靄がかかりそうになる。
「むむ……」
唸り声でやっと己の在ることを確かめる。それも次の瞬間には曖昧になり、どこか異界に向かっているかのような錯覚に陥る。
そして、最後にくぐった戸張の奥に天女のごとき梁公主の姿があった。
「よくいらっしゃいました。公子殿」
「…………」
思わず返辞も忘れて、その妖艶な美貌に見とれる。寝台に腰かけた公主は、面を白く装い、唇には紅を引き、身には薄衣を纏っている。卒かに小鳥が囀るように朗らかに笑うと、
「何を畏まっておいでです。どうかおかけになって寛いでくださいな」
やはり言葉は出ず、操られるように腰を下ろす。いつの間にかチンラウトは退出している。
しばらく公主は何も言わず、潤いを含んだ目でじっと見つめる。ダマンは恥ずかしくなって、そっと視線を逸らす。何か言わねばと焦ったが、口の中は渇ききってしまっている。内心では思うに、
「話があると言ったのは公主ではないか。なぜ私が焦る必要がある」
気づけば公主が立ち上がっている。はっと身を固くすれば、やはり嫣然と笑いながら、
「あら、そんなに緊張なさらないで。今、お飲みものを差し上げましょう」
その声もどこか遠くから響いてくるよう。渡された杯をひと息に干せば、得も言われぬ甘美な味が広がる。しかし喉の渇きは一向収まらず、かえって頬が火照っていかんともしがたい。思わず呟いて、
「わ、私は……」
「何もおっしゃらないで。こうして貴殿に会うのを楽しみにしていたんですもの」
「えっ……?」
「今夜はハーンはお戻りになりませぬ。ときはたっぷりとあります」
ダマンはますます混乱して、思考もひとつところに留まることを忘れてしまったかのよう。視界もぼやけはじめて、ただ公主の姿だけがくっきりと際立っている。
公主は呆然としているダマンの手を取り、己の隣に誘う。一瞬、躊躇しかけたが、どうしても抗うことができず、導かれるままに寝台に座る。
と、その途端により濃い女の香が鼻を突いた。はっとしてこれを見れば、薄衣の下の豊かな姿形が目に飛び込んできたので、あわてて視線を逸らす。
「あ、公主。何を」
そのほっそりとした白い指が、ダマンの袍衣の下をくぐっていた。驚いて見れば、公主はこれまで見せたことのない艶冶な表情で、
「ふふふ、まことに草原の丈夫……。私の思っていたとおり……」
ダマンはとうに一切の思考を失って、一寸たりとも動けずにいる。と、もう一方の手がダマンの手を取って、その熱き処へと誘った。
それは脂肉のごとく、湿原のごとく、動かざる生鋼の心をも招き呼べる、一個の聖なる関門。ダマンは鳩尾(みぞおち)の辺りを締めつけられるような、それでいて陶然たる心地。
「さあ、貴殿の望むままになさい。安らかに、沈み込まんまで……」
囁くように言えば、ダマンの最後の理性も消し飛んだ。荒々しく薄衣を引き裂くなり、両の肩を把んでこれを押し倒す。女は獣のごとき勢いに抗うことなく、むしろ喜悦さえ見せれば、若き丈夫は咆哮を迸らせて衝動のままに挑みかかる。
たちまちのうちに奔流のごとき快楽に身を委ねると、まさしく「易」に謂うところの「天地絪縕して万物化醇す」といったところ。
上になり下になり翻雲覆雨、柳腰脈々として春濃やかに、桜桃呀々として気喘ぐ。星眼朦朧、酥胸蕩漾、ときの経つのも忘れて幾度となく雲雨の情を相結ぶ。
もとより梁公主は中華の後宮にて房事を習練したる妖婦。その手練を駆使すれば、いかな大丈夫といえども抗することは至難の業。独りダマンを責めるのは酷というもの。果たしてダマン・マンチクはいかなる運命を辿るか。それは次回で。