第九 二回 ③
超世傑妄動を戒めてオンヌクドを遣わし
梁公主閨房に囁いてダマンを惑わす
猜疑の虜となった目で見れば、あろうことか公主までもがダマンに惹かれはじめているように思われて、強い嫉妬の念が湧き上がってくる。やはり閨房にてそれを糾せば、わっと泣き伏して、
「何という酷いことを。私が想うのはハーンだけです。そのような疑いを持たれるくらいなら舌を噛んで死にます」
おおいにあわてて、
「戯言じゃ、恕せ。お前を疑ったことなどない。機嫌を直しておくれ」
ここぞとばかりに公主は言った。
「近ごろではダマン殿はさらに大胆になられて、生きた心地もしません。ダマン殿が伺候されるたびに寿命の縮まる思いです。早く私の憂いを断ってくださいな」
「ううむ。だがあれは家臣からの信頼も厚い。確証もなしに処断はできぬ」
それを聞いて公主の目が妖しい光沢を帯びる。言うには、
「では確証とやらがあれば、心を決めてくださるのですね」
もとより事実なら恕しがたく思っているのはハーンも同じこと、異存のあろうはずもない。
「では……」
公主はあることを囁いたのであるが、それはのちに明らかになること。
さてしばらく奔雷矩オンヌクドはオルドにあって内情を探っていたが、得るところもなかったのでアイルに戻っていた。超世傑ムジカはこれにマシゲルへの使者の任を託した。
無事にマルナテク・ギィに迎えられると厚い歓待を受ける。席上、ヤクマン部の近況について語れば、誰もが一様に憂いの表情を浮かべる。中でも赫彗星ソラは憤慨して、
「妖婦め、何か企んでいるに違いない。『吹雪の前は静寂』って奴だ」
オンヌクドは答えて言った。
「しかしさしもの公主もダマン様には手が出せないのでは。オルドに在ればハーンの目がありますから」
居並ぶ諸将はなるほどと頷きかけたが、独りゴロ・セチェンだけが険しい表情。ギィが鋭く見咎めて尋ねれば、
「私はトオレベ・ウルチをよく知らぬ。だが、貴殿らの考えは少し甘いと思う」
「なぜでしょう。願わくば教えてください」
蓋天才と称されるゴロは、腕を組んで言った。
「私なら、ダマン・マンチクにはオルドを離れるよう勧めるだろう。人を除くに剣を用いるとは限らない。むしろ先のドラサンのように剣が使われるのであれば、いくらでも対処できる。だが怖いのは謀略だ。公主の近くに居るのは『狼穴で午睡する』ようなもの、かえって殆うく見える。英王は完全に公主の手中にあるようだし、恃みとせぬほうが賢明というものだ」
聞くうちにオンヌクドはみるみる青ざめる。震える声で尋ねて、
「ど、どういう手があると……?」
「それは判らぬ。だが公主の懐刀たる四頭豹は相当なセチェン(知恵者)と聞く。かつては僅かな兵でジョルチン・ハーンを苦しめたほどの男だ。老人を欺いて、ダマンを陥れることぐらい易いものであろう。だからオルドを離れるべきだ。俚諺にも謂うではないか、『君子危うきに臨まず』だ」
オンヌクドは居ても立ってもいられず早々に辞去すると、ギィが止めるのも聞かずに大急ぎで帰途に就いた。
ところがゴロの助言は一歩遅かった。オンヌクドの留守中に大事件が起こった。ある日のこと。トオレベ・ウルチは、卒かに第二オルドへ赴くことを告げた。侍衛軍を統べるコルスムスが、これを護衛していくことになった。
しかし、これこそダマンを陥れる罠だったのである。計略を知っているのは公主、四頭豹と七卿だけであった。何も知らぬダマンは、満面の笑みを浮かべて、
「お気をつけて。ここは私がしかと治めて、父上の帰りをお待ちしております」
「うむ」
トオレベ・ウルチはその笑顔を見て、また疑心が雲のごとく湧き上がる。
「此奴め。わしがおらぬようになるのが、よほど嬉しいらしい」
おおいに機嫌を損ねる。そもそも公主が囁いた確証を得る方策とは何であったかと云えば、
「ハーンが居なければ、きっとダマン殿は善からぬことを図るに違いありません。だからオルドを離れたふりをして身を隠し、ダマン殿が何を為すか確かめられればよろしいでしょう」
そこで急な行幸に至ったという次第。トオレベ・ウルチは群臣に見送られて発った。無論密かに道を易えて戻ってくる予定である。公主はチンラウトを召し出して言った。
「ふふふ、老人はいなくなりました。これであの似非君子の命も今日まで……。さあ、四頭豹の計を行うのです」
後宮を管理する宦官チンラウトは、そのつるりとした顔を綻ばせて、
「仰せのままに」
退出すると、ダマンに使いのものを走らせた。これを迎えたダマンは訝しんで、
「公主がお呼び? ……承知、あとでお伺いすると伝えよ」
そう返答した時点で、この仁君の命運は定まった。