第九 一回 ④
ヘカト東に奸人を瞞して離間を画し
ドルベン南に愚夫を唆して擾乱を誘う
ここについにヒィ・チノを悩ませた神都と北原の友好は崩れた。サルチンがナルモントを訪れてから一年以上が経っていた。サルチンは再びヒィを訪ねると、笑いを堪えつつ言った。
「ハーンにお祝いを申し上げます。ドブンの首を届けるとは、決定的」
「ふふふ、よくやってくれた。一年待っただけのことはあった」
すると答えて、
「私はもっと長くかかると思っていたのだが、予想以上にエバ・ハーンは大局の見えぬ凡君だった。勅使を遣って王位を授けるなどというのは、計略の端緒に過ぎなかったというのに」
「ははは、エバも怒らずに笑い飛ばしていればよかったのだ。ともかくこれで背後を気にせずに北伐ができる。ヘカトの任務もこれで完了だな」
するとサルチンは笑って言うには、
「ふふふ、まだ神都の牙は抜かれていない。最後の仕上げが残っている。来年には完了するだろう」
「楽しみだ。それがすんだらおおいに褒賞を与えねばならぬな」
「我々は商人ゆえ、当然報酬はいただく。光都の保護の継続と……」
そこで言葉を切る。ヒィ・チノは即座に察して、
「神都を得たら無論くれてやる。俺が持っていても持て余すばかりだ。ナルモントには必要ない」
「ははは、相変わらずハーンは慧敏だ」
二人は存分に笑い合うと祝杯を上げたが、くどくどしい話は抜きにする。
サルチンの云う「最後の仕上げ」については後述することにして、話を前年に戻さなければならない。ヘカトが神都に入って種々の献策をしていたころ、ヤクマン部でも梁公主と四頭豹の謀略が実を結びはじめていた。
トオレベ・ウルチの第三子で英明の名高きドラサンは、ダルシェによって兄オルカク・ウルチが攻め殺されてからは、常に厳戒態勢を布いていた。
応じて超世傑ムジカ、神風将軍アステルノらもいつでも出陣できるよう軍備を整えていた。ところが思わぬところから敵人が現れたのである。
中央から送られてきた兵が卒かに造反し、ドラサンのゲルを襲ったのである。ドラサンはあえなく凶刃の下に斃れた。造反した兵を指揮していたのは、例のマンドゥ、ピンドゥ兄弟であった。
陣営は大混乱に陥り、マンドゥ兄弟は逃走した。これを追ったのは皁矮虎マクベンと笑小鬼アルチンの一隊である。兄弟はこれを振りきって、亜喪神ムカリの軍営に逃げ込んだ。
ドラサン暗殺はもちろん四頭豹ドルベン・トルゲの示唆によるものだった。梁公主より、ことが成ればジョシ氏の王を廃して兄弟を王に推薦する、罪は問わないという言質を得ていたのである。
彼らはそれを信じてドラサンを殺し、四頭豹の言に順ってムカリの下へ走った。ところがムカリは彼らを瞬く間に捕らえて縛り上げてしまった。マンドゥらが抗議の声を挙げると、かっとして言うには、
「公主がそのようなことを言うはずがない。ハーンの嫡子を殺すとは紛れもない反逆。裁可を仰ぐまでもない。殺してオルドへ首を届けよう。生かしておいても虚言を吐くばかりだ」
愚かな兄弟はあっさりと殺され、首はハーンの下へ送られた。トオレベ・ウルチは怒りのあまり口も利けぬ有様で、ふたつの首を踏み躙った末に棄てさせた。ムカリは叛徒を討った功を賞されて駿馬百頭を賜った。
またドラサンが治めていた牧地については庶子に細かく分配されたが、その中心になぜかミクケルの遺児ヂュルチダイが広大な所領を得た。これはすなわち亜喪神に力を与えたのと同じことである。
トオレベ・ウルチ自身はもはや何も判断できない有様だったので、すべては四頭豹らが決定した。つまりただの一事をもってドラサンを葬り、マンドゥ兄弟の口を封じた上、ムカリが翼を得たのである。
アステルノらはこの一件に策謀の臭気を嗅ぎとったものの、確証がないためどうすることもできなかった。
傷心著しいトオレベ・ウルチは傍目にも判るほど衰弱し、かつて衆を畏れさせた威厳はことごとく失われたようであった。公主の発言力は日に日に高まり、諸将は不安を募らせた。
それでも諸将には唯一の希望があった。第四子ダマン・マンチクである。父トオレベに代わって彼は能くオルドをまとめ、独り公主の専横を許さなかった。
若く壮健であり、人格は穏やかにして果断、すこぶる英邁の名を博した。志あるものはこれに一縷の望みを託した。ドラサン亡き今、ダマンが名実ともに次期ハーンとして将来を嘱望されたのである。
あるとき、ムジカが難しい顔で言った。
「ダマン様はたしかに英主の資質をお持ちだ。だが、純粋に過ぎるところがある。平時の美徳も乱世では命取りになりかねぬ」
タゴサが聞き咎めて、
「どういうこと?」
「謀略に思いが及ばぬものは、それに備えることもできない。赫彗星が良い例だ」
「まさか公主がダマン様を陥れるとでも?」
「ありえないことではない。先のマンドゥ兄弟の暴挙も、公主と四頭豹が謀ったに違いない。あのドラサン様ですら逃れえなかった。次は必ずダマン様が狙われるだろう」
「でも、ダマン様はオルドにいるでしょう。どんな方法があるというの」
ムジカは眉間に皺を寄せると、首を振って言うには、
「わからん。私も謀略の類は不得手なのだ。単純にできているからな。せいぜい奔雷矩を使って情報を集めるくらいなものだ」
「そのオンヌクドは何か言ってきた?」
「いや。私の周りには知謀の士がいない。マクベン、アルチンは無論、アステルノとて勘は鋭いが策謀は得手ではない。四頭豹のごときはどんな頭の構造をしているのだか、さっぱり判らん。次はどんな手を打ってくるのか」
「奇人殿か神道子でもいればね」
ムジカは深々と頷いて溜息を吐くと、遠い友人に思いを馳せた。かつて彼を援けたその才略は、西原でところを得て大きく開花しようとしていた。
「我が部族の未来だけが昏い」
「えっ、何か言った?」
タゴサの耳には届かなかったようであった。ムジカはそれには答えず唇を噛んだが、くどくどしい話は抜きにする。
さて秋を間近にして、オルドは俄かに喜びに包まれた。公主が男児を出産したのである。ずっと鬱ぎ込んでいたトオレベも、これには頬を弛めた。自ら赤子を抱き上げると、これに「ジャンクイ」の名を与えた。
まさに一人世を去れば、新たな命ここに至るといったところ。老王歓喜するも諸士は肝を冷やし、さらなる陰謀を恐れるのはいかんともしがたい。
このジャンクイ、中華名を「江魁」、あるいは「張魁」とも謂う赤子の誕生によって、どのような奸智が運らされるか。それは次回で。