第九 一回 ①
ヘカト東に奸人を瞞して離間を画し
ドルベン南に愚夫を唆して擾乱を誘う
さて、ヒィ・チノのオルドを訪れたサルチンが言うには、
「ヒスワはいつも策を弄しているが、人に謀られたことは一度もない。あの謀略に長けた奸人を陥れることができたら痛快ではないか」
おおいに興味を示して、
「おもしろい。良策があるなら乗ろう」
「ヒスワの大略は常に華々しい成果を狙っている。ゆえに一見完全に見えても、小さな綻びや不測の事態によって容易く破れてしまうのだ。私の策はそれとは逆で、すぐには効果が見えないが、必ず彼の力を殺ぐだろう」
「ふむ、それで?」
「僭帝ヒスワの暴政は人衆の恨みを募らせているが、これをさらに助長する。加えてエバ・ハーンとの連合を徐々に崩壊に導く」
ヒィ・チノの目がきらりと光る。
「そんなことができるのか? たしかにセペートと神都を離間せしめることができれば、それに勝るものはない」
サルチンは莞爾と笑うと、
「神都に鉄面牌を送り込む。かの奸人は喜んでこれを登用するだろう。あとは彼が計を成すのを待つだけだ」
「ヘカトを? 危なくないのか」
「この任を授けられるのは彼しかいない。知ってのとおりヘカトは一見魯鈍な印象を与える。だから奸人も警戒を怠るのだ。しかしその実は、先にハーンに神都を囲む計策(注1)を示したような大才の主。さらに昔日より奸人を知っていて、その性向を知悉している。これ以上の適任はない」
「ヘカト自身は何と?」
「ぶつぶつ言っていたが承諾している」
ヒィ・チノは少しく考える風だったが、やがて言うには、
「しかし急に帰っても、まことにヒスワは信用するかな?」
「心配は無用。笑面獺と諮って、ひと芝居打ってもらう」
「善し。楽しみにしていよう」
「念を押すようだが、すぐに効は顕れぬ。大業を成すには待つことも肝要だ」
「ははは、もとより承知している」
剛毅に笑って酒食の用意を命じたが、くどくどしい話は抜きにする。
サルチンが光都に帰ってしばらくすると、駅站を通じてヤマサンから報告があった。言うには、
「鉄面牌ヘカトは道理に昏く、人衆を惑わした罪によりこれを放逐した」
なおよくよく聞いていみれば、
「ヘカト様は軍紀の紊乱を理由にヤマサン様にことごとく異を唱えたのです。ついにはサルチン様も烈火のごとくお怒りになり、衆議を経て放逐に決まったというわけです」
ヒィは眉を顰めたが、内心ほくそ笑んだのは言うまでもない。ツジャン・セチェンに言うには、
「光都の連中はえらく大仰にやってくれたようだな」
「ヘカト殿には気の毒なことですが」
それを聞いて呵々大笑したが、この話もここまで。
光都を出たヘカトは、すぐに神都を目指した。鉄面牌放逐の噂は商人や間諜によって知らされていたから、ヒスワは早速これを召した。
「前非を悔いて皇帝に赦しを請わんとて参りました」
恭しく述べればおおいに喜んで、
「お前を閣卿とする。明日より出仕せよ」
「はい。謹んで拝命いたします」
閣卿とは、大院を廃したヒスワが新たに設置した内閣の一員である。内閣とは皇帝の政務を輔弼する部署である。勅書を起草し、それを執行するべく雑務を処理するのが任務である。云わば皇帝の秘書といったところ。
ヒスワの帝国ではすべての官庁は皇帝に直属するが、中でも側近としてもっとも高位にあるのが閣卿であり、定員は数名に過ぎない。いかにヘカトの帰還を喜んだかが知れよう。
余談だが、のちに中華に成立した隆朝の太祖昭武帝は、それまであった宰相の職を廃して、この内閣の制度を採用した。以降、内閣の職権は増大の一途を辿り、ついには閣卿を指して宰相と称するまでになるのである。
本題に返る。ヘカトは翌日から宮城に出仕して、しばらくの間は黙々と政務をこなして信頼を得ることに腐心した。
その間に神都の高官を観察し、力あるものには厚く贈物をして交誼を求めた。その中には衙門将である呼擾虎グルカシュも含まれる。
当時、閣卿の筆頭にあったのはヒスワの従弟スブデイ・ベクである。ヘカトは特にこれに近づき、閣内での地歩を揺るぎないものにした。
さまざまな献策をするに当たっては、すべての功を彼に譲った。が、その策とは実はヒスワを陥れるものだったから、巧みに後難を避けたとも言える。
(注1)【神都を囲む計策】北伐中に留守陣を襲われたヒィに、ヘカトが進言した策。第四 六回④参照。