第九 〇回 ④
ヒスワ楚腰道を断ちて光都を囲み
ヒィ・チノ隻眼傑を得て南伯に任ず
あとは戦と呼べるものではなく、一方的な追撃となった。およそ四十里も追ったところで、漸く軍を返して光都に帰還する。城壁には人衆がずらりと並んで歓呼の声で迎える。
ヒィ・チノは兵を城外に留めると、シノン、ヤマサン、それからゾンゲル率いる近衛兵を伴って入城した。
城門をくぐると、楚腰公サルチン、鉄面牌ヘカト、一丈姐カノン、嫋娜筆コテカイ、神行公キセイの五人が恭しく出迎えた。その背後にはひと目ヒィ・チノの姿を見ようと群衆が犇めく。
内城に案内されると早速宴の用意がなされた。それぞれ席に着くと、サルチンが代表して礼を述べる。答えて言うには、
「俺は迂闊にも敵の計略にまったく気づかなかった。ここにあるムルヤムのシノンが、断たれていた駅站を復し、変事を伝えてくれたのだ。礼なら彼に言ってくれ」
そこで改めてシノンとヤマサンに厚く礼がなされた。それからはお決まりの宴となったが、そこでヒィ・チノが言うには、
「隻眼傑の果断、笑面獺の英明、そして黒の騎兵の猛勇は称賛に値する。ムルヤムは私の宝剣だ。その兵を『黒袍軍』と名付けよう」
草原に勇猛を謳われる精鋭は幾つかある。すなわちジョルチ部の紅袍軍、ウリャンハタ部の竜騎兵、ヤクマン部の赤流星、ダルシェの魔軍などであるが、ムルヤム軍は一戦にてこれらと並ぶ盛名を得たのである。
翌日、ホアルンの防備についてヤマサンが献策して言った。
「傭兵は信に薄く、兵は弱い。やはりナルモントの兵をもって守備に宛てたほうがよいかと思われます」
即座に断を下して、
「ではお前をここに残そう。五千騎でよいな」
驚くヤマサンをよそにサルチンに言うには、
「光都で五千騎を養えるか」
「それは心配ない。ただ……」
「解っている。傭兵の契りを結ぼう。俺は光都をあくまで対等の友邦として扱う。私領とは見ない」
サルチンは莞爾と笑って、
「では通常の倍額を支払おう」
「必要ない」
「それは信義に悖る。それにただの傭兵に比べれば、倍額でも安い」
ヒィは笑って、
「そうか、ならばそうせよ。俸給はすべて穀物。オルドへ届けよ」
「承知。契約は成った。文書を作成しよう」
「要らぬ。俺は字が読めぬ。必要なら適当に作って保管しておけ」
「ならばそのように」
その後、楚腰道についても再考された。ここで初めて駅馬吏が設置されることになった。隻眼傑シノンが街道の保全を命じられた。
ヒィ・チノは光都で為すべきことを為すと北に帰ったが、途中イルシュ平原に小氏族を召集して会盟を行った。勅命を下して、すべてのものはシノンに従うようにした。
このときからシノンは「南伯」と称されて強大な権勢を誇ることになった。その威勢の及ぶ範囲は、南は光都から北はオルドの近くにまで及んだ。名は遠く西原にまで轟くことになったのである。
ナルモントの南方はこれまで以上にまとまって、情勢を窺っていた諸氏族も、陸続と南伯の幕下に至って臣従を誓った。
ツジャンは先に述べたようにヒィを諫めて容れられなかったが、あまりにシノンが強大な力を有するようになったので、密かに警戒を強めた。
エバ・ハーンの女婿ケルン・カーンは、神都軍の敗報を知ると、すぐに陣を払って森に帰った。モゲトも追わずに帰還した。
ヒスワはまたも敗れて、おおいに怒った。先には光都の助力で神都を囲まれ、今回は地から湧いたような小氏族に計を破られた。さすがの奸人も頭を抱えて、
「計略では勝っているのに、なぜ負ける。ヒィ・チノは運の強い奴だ」
その後、間諜を大量に放って南原の様子を探ったが、光都にはナルモント軍が入り、駅站も改良され、再攻略が難しくなったことを知っただけであった。
「次の計だ。常に計策では先んじているのだ。僥倖はそう何度もあるまい。次こそヒィの心胆を寒からしめてくれよう」
目に暗い光を湛えて奸智を運らしたが、この話はここまでにする。
サルチンがヒィ・チノのオルドを訪れたのは夏の盛りであった。乾杯して互いに再会を喜ぶと、おもむろに言うには、
「今日は傭兵の俸給を支払いに参った」
「そんなことに楚腰公自ら来なくてもよい」
「ふふ、実は笑面獺と諮って、ハーンを益する策を建てた」
「ほう、聴こう」
すると居住まいを正して言うには、
「ハーンは勇名を称えられて久しいが、大略に関しては常に神都の奸人に先んじられている」
「そのとおりだ」
嫌な顔ひとつせずに頷く。サルチンはにやりとして、
「やられてばかりではよくない。ヒスワは策を弄するが、人に謀られたことは一度もない。あの謀略に長けた奸人を陥れることができたら痛快ではないか」
「おもしろい。ヒスワのような奴は好かぬ。良策があるなら乗ろう」
そこで語られたことから奸人の肝は冷え、小人の和は乱れることになる。すなわち驕れるものは人を失い、優れるものは志を陳べるといったところ。
これを機に神箭将は北原に矛を向け、一挙に東原に覇を唱えることとなるわけだが、果たしてサルチンは何と言ったか。それは次回で。